A Gloomy Part-Time Lord "X1" of a Rental Apartment Building
或る兼業大家"X1"の憂鬱
エピソード6 結解
エピソード6 入居する審判者
11月に入って一週間がたった。
Z4はあれから、度々食事をしに来るが以前ほどではない。
自力での食事の確保が安定したのだろうか。Y1の疲弊も落ち着いてきた。Z4の真摯な謝意が彼女に届いた成果だろう。
だが逆に、Y1自身が『自分を落とせ』と口にしたのが裏目に出たのか、Z4が以前にも増してY1に懐きだした。Y1は滅茶苦茶嫌がっている素振りだが、だからといって無理に引き剥がしたりはしていない。
Y1が作る料理が食べられる日の彼女は、それはもう大喜びだ。Y1が「自分でも作らないんですか?」と嫌味を言うものの、Z4は「作っても美味しくないもん」と、意に介さない。
それに彼女はしっかりと食費も払ってくれている。ただ、この前のお詫びと食べた分のお代だといって、数日毎に嬉しそうに数万円づつ自分達に渡してくるのはやり過ぎだとは思うが。
彼女の言によれば、自分で稼いだ額の一部だというので突き返すのも悪いと思い、実際に掛かった食費分のみに限り受け取っている。
「照明、……み、写し、もえあがれ、怒の炎、輪、取り。熱……」
ここ最近は、インテリアと思しきカーテンや豪奢なテーブルが305号室に届いているのを見かける。そんな所を気に掛けられる程度には生活に慣れ、余裕が出来たものだと思われる。
さらに、これまで交流の無かった隣近所とも仲良くし始めているようだ。
Z4が玄関口で住民と会話している場面をよく見るようになった。
「X1さん、携帯鳴ってますよ。仕事中にぶつぶつと、らしくないですよ?」
ここ二週間の睡眠時イマジナリーフレンド顕現訓練も順調だ。
三週間前から続けている睡眠時訓練。これは変わらず、D3に間隔をあけて数回来てもらい監督を受けている。二週間前の夜に彼が来たのも、その為だった。
あのこともあり。やはり非常時の備えを欠かすわけにもいかないと改めて感じる。疲労が溜まるのは相変わらずだが。
だが良かったこともある、一週間目よりは疲労感の具合も軽く済んでいる。
さらに以前よりも、『像』ははっきり見えるようになった。これも成長なのだろうか。
しかし、D3が毎回訓練用にお経のような呪文を置いていき、『像』を想像しつつ唱えさせられるのだが、それはイマジナリーフレンドの明晰夢内顕現のトリガーというものらしい。
毎日唱え、日常行動に染み付けよ、とのことだが、本当にそれがZ4に通じるのかは怪しいものだ。
だが、出来なければY1への想いを失う危険があると考えれば、習慣化しない手はない。しかし、この文言の長さはどうにかならないものか……。
「空の、声、声……。光、終焉……えっと……」
「X1さん? 電話ですよ!」
「うわッ!!」
目の前で職場の同僚であるM4に手を振られて、気が付く。確かに自分の携帯電話が鳴っている。
「すみません……。電話、ちょっと出てきます」
「短めにお願いしますね!! ……。ああ、やっぱりこの前の境界線問題が長引いてるんだろうな、同情しますね。御呪いに傾倒する気持ちも分かります。所詮は同類ですね」
M4はキーホルダーに留めている御守りを指で回しつつ席に着こうとするが、思い直したように彼も携帯電話を取り出しオフィスを出る。その表情は、子供っぽい邪気溢れる微笑みが湛えられていた。
「もしもし?」
「X1さん。今、よろしいですか」
電話の相手はY1だった。
「ええ、どうしました?」
「今、乙不動産に電話がかかってきたらしいんですが、『305号室の住人に、部屋での事業展開を認めたのか? 何だか知らん人が三階をウロウロしていて、占い相談所の『分際館』は何処かと聞かれた』と甲物件の304号室の方に言われたそうです。この件、X1さんには心当たりはありますか?」
305と言えば、Z4に貸している部屋。304は確か、独身の四十代男性が住んでいる部屋ではなかったか。しかし、『分際館』という名はX1にとって初耳だ。一応、如何にも『亡失の7観』らしいネーミングだが。
「いえ、ありません。Z4さんに何かあったのかも。うーん、俺は今見に行けません。Y1さん、そちらで確認することは出来ますか?」
「すみません。私も手が空いてなくてすぐには……。ちょっと夕方過ぎになってしまいます」
「そうですか……」
しかし、Y1とX1が甲物件に帰ってきた頃にはそのような人影はなく。Z4に『分際館』に関して事情を訊くも、『困ってる人のお話を聞いてるだけだよ』と、何でもないことのようにいう。
X1は何が起こっているのか判然としないこの問題を、時間を使って観察するしかなかった。
次の休み。すぐにX1は、これが一日も使っての観察が必要な程の案件ではないと認識した。
305号室の前には人の列が出来ている。皆、甲物件の住人のようだが。その集い方はとても近所付き合いのそれではない。
傍に近づいてみると、普段は何もない玄関扉にこの時は『分際館』の看板が掛かっている。
分際提示、十五分・五千円とマジックペンで書かれた板切れは、デザイン、品質共に貧相な作りだが、その内容の信頼は高いのか人々は待たされるのにも関わらず静かに順番を待っていた。
耳を澄ませると、室内から小さく声が聞こえてくる。
「その分際で、ダイエットしてるって言えるのー? ちゃんと夜中につまみ食いしてる分際でー?」
明らかに、Z4の声だった。そうして聞いていると、時間が来たのか次の客と入れ替わる。
「可哀そう。自分が幸せな結婚が出来る分際だと思ってなかったのに、親に今の旦那さんと結婚させられちゃったんだね。悔しかったね。でも、今の旦那さんも別に悪い人じゃなくて自分が分かんないんだね。でも、大丈夫。貴女の中にちゃんと愛情はあるよ。貴女はそういう分際だよ」
人間関係の相談だろうか? どうやら、その名の通りしっかり『分際提示』をしてくれるらしい。
「うーん、お兄ちゃんが遊んでくれない? だからってお財布から一万円を盗んじゃダメだよ。これ、返そうね。次来るときは、ちゃんとお小遣いで来るんだよ。子供料金作っておくから」
彼女は熱心に、相談を受けている。正直X1は、驚きだった。しかし同時に、『分際館』は相談所に無関心な住人には迷惑を掛けているのも確かだった。
時たま、ストレスを溜めた顔の住人が行列を避けて通っていく。数人はX1が大家だと承知しているので、声を掛けられた。
「毎日何だかんだで、順番待ちしてるよ」「今日は一際並んでるけど、こんなことになるなら僕はここに住んだのを後悔しそうだ」
「せめて完全予約制にさせるとか、この行列をなんとかしてくれ」
「今はここの住人だけだから良いが、今後外部の人間が敷地に入ってくるようなら、ウチは引っ越しを検討するから」
様子を見ている間だけで、通りすがりにこれだけの意見を頂けてしまった。才能を生かし、アイデアを振り絞って事業を成立させたZ4には悪いが、X1としては場所に問題があると彼女に指摘せざるを得ない。
「ごめん。Z4さん。止めさせてもらうよ……」
独り言のつもりの一言だったが、意外にもこれに『隣から』返答があった。
「そうですねぇ。私からも、お願いしたいですね?」
そこには、暖かそうなチェスターコートの装いをした。
「Z1!!」
これまた、つばの広い帽子を被った彼の姿がそこにはあった。
「私も知らない内に、こんな事に。困りましたねぇ? 私も知っていれば止めたものを。しかし、すごい評判だ」
白々しく喋るZ1。一瞬こいつのせいか、と思いかけたX1だったが。こいつはいつもこんな喋り方か、と思い直す。
それに、Z4が契約違反を引き起こす状況をこのZ1が望む理由も見当たらなかった。だから、『止めたかった』の部分は、一応彼の本音だろうと考える。
「ふざけるな、Z1。それに、Z4さんの問題はお前の責任だろ? お前が何とかしろ」
上司だろ? とX1はこの状況を責任問題として取り上げる。しかし、それしきで表情を崩すZ1ではない。
「いやはや、お厳しい方だ貴方は。しかし、そういった意味では、貴方もこの甲物件の管理者だ。であるなら、この状況を問題とするならそれは、あなたとZ4間で取り決められた契約上の問題と言える。つまり、」
「俺が解決すべきだと?」
「そうです。私が取れる責任は、強いて言えば『これだけ』」
そう言って、彼は胡散臭い動きで、手首を格好良くクルリと回す。
するとZ1のスナップした手中には、いつの間にか携帯電話が握られている。それを彼は素早く操作し、そしてまた同じ動きで携帯電話が仕舞われる。
「さて、これで『観隊』は現時点で任務上における当作戦を失敗と認め、それに伴う作戦行動の全ての続行を中止し撤収作業に入る。撤収時の情報封鎖は厳に。各々の持てる力を万全に用い、我々は関係者の処遇を自由に裁量する。もう、ここから起こる被害は全て『撤収時事態』。その後の彼女が引き起こす『異常』な影響を、『バイアス』及び『第六の正常』は全て『許容』する」
その、言葉を、X1は完全には受け入れられない。ただ、分かるのは。
「Z1……、やめてくれ、卑怯だぞ。強引に何もかも無かったことにするつもりか?! 人々も、彼女の気持ちも!!」
「何とでも。では、ご武運を……、親愛なる、X1さん」
「Z1!」
そして、彼は溶けるように人影に消えた。
「任務は終わりだ! もう、俺達に構う事はないんだ、君は!」
X1が張り上げた声は、305号室で『分際館』広げているZ4に向けたものだった。
その瞬間、彼女は自身の携帯電話を確認し、X1が何の話をしているのか分かったようだ。しかし、今し方順番が回ってきたらしい甲物件住みの老婦人が、ちょうどZ4の対面の席に着いたばかりだった。
「そう……。でも、この人だけ見させて。これで、最後にするから」
Z4は老婦人と握手をして、微笑む。
「分かりました。でも、申し訳ないけどこのお部屋、居住用契約なので契約違反です。それは分かってください」
「そうなの? でも、一階は、何かお店やってるよ?」
Z4は目の前の老婦人に意見を求める。
「そういうのは、契約書の中に書いてあるんでしょ? そこにダメって書いてあったら、ダメなのよ」
「そっか」
彼女は率直にそれだけ口にして、最後の客への『提示』をするのだった。
「皆、今日はちょっと早いけど店仕舞いだよ。それに、……もう閉店しなきゃいけないみたいだから、ごめんね」
Z4は305号室の玄関口に立つX1の横を通り、閉店の札を出す。
「なんだよ~」「急に?」「あと、ちょっとだったのに……」「まあ、時間の問題だったよね」
と、客はトボトボとそれぞれの部屋へ帰っていった。
「X1さん、本当にZ1は任務を切り上げて、撤収すると言ったんですね?」
X1が電話で呼んだY1が、外廊下で待っていた。D3も小走りで近づいてくる。
「ええ、そして、Z4がどう事態を収拾するも自由だって……」
Y1はそれを聞いて唇を噛む。
「くッ……、良くありませんね。彼女がこのまま何もせず帰ってくれるかどうか」
D3も到着し、着ているコートとネクタイを整える。
「それを、我々で止めるのだ。D6、X1君。賃貸物件から引き払うなら、無理矢理『無かったこと』にするよりずっと平凡で、平和な解約方法があると。我々で、『亡失の7観』に教えるんだ」
「今すぐ出ていけって言うんだよね、X1様……」
店仕舞いを終えたZ4は、仄暗い夕焼けすら届かぬ部屋の中からX1らの方を見ている。それは悲しみでもなく、寂しさでもない。決意の目で。
「そうじゃない。確かに俺達は契約違反について、Z4さんを脅かしたけど。君は、お店を止めるって言ってくれてる。だから、問題ない。そもそも、俺はZ4さんを『強引』に締め出すなんて出来ない。それは居住権の侵害だからね。それは司法の仕事だ」
「そうなんだ。この世界の決まり事は、普通の人に優しいんだね。あたしみたいな、お荷物には厳しくても」
「Z4さん……、それは……」
「それでも、任務が失敗した以上ここには居られない。命令だから。あたしは、あたしの力全てを使って、この場を全力で終わらせるね……。三人共、いくよ」
Z4が構える。そして、暗闇が晴れ初めてX1は気づく。彼女がいつの間にか着ている装束。それが、『バイアス』達が着ていた、あの黒いローブだと。
「『亡失の7観』。戦っても、貴女が死ぬだけです」
「その通り。撤収なら何もせず、彼に退去届を出すのが賢明ですよ」
Y1とD3が続けて話す。
「やめてくれ。もう、そこまでして任務に殉ずる必要は無いんじゃないのか?!」
最後に、X1が叫んだ。
「違うよ……。任務だったけど、あたしは、あたしは。本当に、X1様のことが……、好きなの!! だから、任務じゃなくても、同じだよ。同じなの」
もう、『第六の正常』も『観隊』も関係ない。そこには恋する女性の姿をした『異常』が、ただ一人。いるだけだった。
「クソッ、Z1はこうなることを予測んでいたのか!? ますます、卑怯な!」
もう、彼女と戦うしかない。
「そういうことだから、あたし……。覚悟、決めるね」
Z4がローブの陰から手を引き抜くと、そこには『バイアス』達が付けていたモノと同じ白い仮面が握られている。
「敵に抗戦の意志有り。済まないが、潰すぞD6」
「はい……。残念です、Z4――」
そして、その仮面が。ゆっくりと、彼女の酷く悲しそうな顔を覆い隠した。
その直後、X1の背後の二人から甲高い風切り音と共にゴルフボール大の鉄の礫が二つ鈍い音を上げ、人の頭一つ貫通する程の勢いで射出される。
「――やって」礫を素早く屈んで避けたZ4の短い指令。背後の室内の壁に穴が開き、石膏と木片が弾け飛び、断熱材が露出した。
続けて、何処からか。
「任務失敗に付き、馳せ参じました。撤収作業を開始します」
聞き覚えのあるしわがれた声。それが、「後ろか!」D3の声。「いや、上です!!」Y1が叫び。
「発出――『潜在、第37の聖告』」
その隙が、上階から舞い降りた『彼』の聖告の発出を許した。「くッ……」D3の声と、激しい金属音が背後から聞こえ。
同時に、X1の意識が朦朧となる。
「その声……、あの時の……」「先月ぶりですね、X1様と裏切者。そして、さようなら。願わくばあなた方に、好い、夢を」
そして彼の意識は地面に崩れ落ちる痛みと共に、再び暗い夢へと途絶えていった。
黒一面の風景。もう、彼には分っている。見慣れたものだ。
この暗い空間。その正体。それが、彼女の能力で作られているのだと。
「Z4さん。ここで、何をするんですか? また、俺にY1さんを嫌わせるような記憶でも見せますか? 俺にだって、準備があります」
だから、こんなことも言える。挑発、いや、彼にとっては単なる疑問。何度も聞いている。彼女が何をしたくて甲物件に来たのかなんて、X1は重々承知している。
「俺は、Y1さんを置いて、Z4さんを選ぶようなことはしません。それでも、あなたが俺の意思を捻じ曲げると言うのなら、俺は最後までそれに抗います。それが、例え、無力な抵抗でも。その結果もし、あなたがX1と言う名を持った男を我が物としても、そこにいるのは決して俺じゃない。それは、俺の形をしたナニカ。あなたが恋したその人じゃない」
ずっと考えていた事を打ち明ける。姿は見えないが、聞いている筈の彼女へ。届くか分からずとも、彼は抗い忘れない。正しくはないかもしれない。彼女の心には、響かないかもしれない。
だが、表明として。
どうすることも出来なくても、これが、一人の人間の恋の形なら。この答えが一番、それにそぐう。
心の世界を用いての、心からの答え。まず一歩目の、暗闇への前進だ。
「なら、『Y1』に振られたら、あたしを選んでくれる?」
目の前に、Z4が現れる。
彼女の姿は揺れ動き、形態が一定ではない。現在の姿だったり、幼かったり。――きっと、Y1と初めて会った時の姿なのだろう。
「それは、分からない。その時の俺に聞いてくれ。それで、次はY1さんに『俺の醜態』でも見せるのか?」
X1は自嘲気味に、そう言い放つが。
「それは出来ないし、その必要はないよ。見てて、わかったから。『Y1』が、X1様について知らないことなんて殆どないんだってこと」
それは、単純に喜んでいいのか不確定な情報だったが。X1は少し笑ってしまう。
「ふふふっ……、そうだな。あの人は、何でもお見通しだからな」
でも、とZ4が呟く。
「それでも、これを見たら、X1様の気も、変わるかもしれない……」
急に黒一面の空間の重量が増す。
「ぐうっ……!! 何が……!!」
重圧が、気圧か。重力か。それとも精神的に。重い、重い、思い、想いが、重い、重たい。
地面の遙か下方に虹色、無限の色彩を持つ巨大な球体が浮いている。雑音、閃光。それが、一度にうねり、うるさい。
「これは……なんだ……!!」
「これが、X1様の『意』『 』『識』だよ。今のX1様は、この綺麗な丸いヤツの、一端」
「こ、これが……!!」
本当に、この球体が意識なら。それに触れられたら本当に不味い。何か、取り返しのつかない事が、起きるに違いない。
だから。
「Z4……、これが俺の二歩目の、抗い、です!!」
準備していた。その符号が、意識を近くに感じ、X1の明晰が冴え渡る。繋ぐ、繋ぐ。侵害の恐怖を怒りに変えて、彼は解き放つ。
D3から貰ったZ4対策。イマジナリーフレンドとは名ばかりの、人工幻想。その脱法創造。呼び声を唱える。切っ掛けの宣言。幻想には幻想。この時のみの悲しき傀儡。その名は。
「我が証明・我が現身・転写し幻界にて燃え上れ。憤怒の炎となり燃え溶け。輪郭を取り、熱を持ち、形作れ」
言葉が連なる。導かれるように、先導する灯により、世界法則介入。変革の呪法。愚かな憧憬。
「それは、怒りなの?!」Z4がたじろぐ。
「亜空の謹聴は外界の啓示なり。望まぬ声よ・望めぬ声を・留まりし我が影が現れる。重なる静寂は、それを、虚飾の終焉と知れ!」
X1の声が一撃の戦鎚のように、空間を震わせる。
「――来い! 『非結晶の烙印』。我望む姿を刻印し、かの幻影を打ち滅ぼせ!!」
X1の手が付きだされ、そこに、白い炎が収束する。以前のような儚く揺れる、幻ではなく。
力強い光源へと形成される。そして――。
「お待ちしましたよ。X1さん」「お使いにならないかと思った。X1君もまた、人を待たせるタイプかな」
そこに、炎の幻は完全なるY1とD3の姿として結実した。
「それが、X1様の奥の手? 本当に、準備して来たんだね。ちゃんと厄介かも」
Z4は素直な賞賛を送る。
「そもそも精神世界とは、本来他人が干渉しえない孤独なものだ。出来て、本人を通じての誘導程度。だが、この方法なら疑似的に他者を受け入れることが出来る。このように、心理的に焼き付ければ」
「想像上の疑似的な他者を創り出せるんです。こうして、特定の人物の内在化を強めれば、ほら。この通りに」
D3が説明し、Y1が自身を指さす。二人共、『本人かと見間違える』出来だ。
「『Y1』、……いや。やっぱり本物じゃない。そっか。これがX1様がさっき言ってたこと。――独り善がりな、勝手な印象。それだけ寄せ集めても、本物の『その人』にはならない。これを知ってたから、あんな風に言えたんだね」
「D3さんは勿論、俺はY1さんのことも、ましてや、自分のことだって全部は分からない。でも、本物のY1さんを俺よりよく知っているZ4さんなら、もっと精巧な『幻影』を作れるかもしれない」
「ううん、それも無理だよ。だってあたしは……。弱いから。何もかも台無しにしちゃうんだ。だから今回も同じ。何も、上手くいかない……」
三人に追い詰められたように、後退るZ4。しかし、まだ彼女だって、諦めたわけではないようだった。
突然、Z4の瞳が怪しく蠢く。
「――――、、、、、、、っっはあ――――、、、ああっ、ふうう――。もう、これ以上の手は無いみたいだね、X1様」
彼女の眼球の中で瞳が十三方に解かれ、この空間の全てを見通すように視界で嘗め回した後。また一つの瞳に凝縮する。
そして、確信したように『手は無い』、と。そう言ったのだった。
「ちッ――」「これが、『思考を読む』ということか」
Y1とD3の幻影が、それぞれの反応を返す。X1が気が付く一瞬前に、そう瞬時に分かるのだから、彼女らは幻影でも優秀だ。
「幻でも、仲間が居れば心を強くできる。そう考えたみたいだね。だけど、あたし、弱いけど、凄いから」
Z4の自信が戻っていく。その影響は、この心の世界ではどんなに重大な変化だろうか。
「俺も、感心した。君は本当に凄い。これも、君の『聖告』の力なのか?」
彼女は、何かX1がおかしなことでも言ったかのように首を傾げて、合点がいったとでもいうように笑顔になった。
「――――気がついてた? X1様。あたしが、一度でも『聖告』を発出した所を見たことはある?」
「……」
X1は、ハッとする。Y1とD3は何も言わない。本物の彼らなら知ってたかもしれないが、知らないことは、知らない。
確かに言われてみれば、ない。彼女は今、こんなにもX1に『異常』を及ぼしているのに、その詠唱を聞いたことがない。
「それはね? そんなものを使う必要がないくらい、あたしが『天才』だからなんだよ?」
その言葉と共に、下方の球体――『X1の意識』がせり上がってくる。
「どういうことだ……!」
「こういう、こと!」
瞬間、先程現実でY1とD3が投擲したものと同じ鉄の礫が、Z4の手からY1とD3の幻影目掛けて射出される。それは、素早く避けた二人とX1の動揺を呼ぶのは簡単だった。
「D6! 集中!!」「D3、貴方も!」
二人も応戦するように、礫を投擲するが、同一の礫の射出で相殺される。凄まじい速度で必殺の一撃が飛び交い、空中で危険な金属音を響かせながら弾かれるのを見るのは、X1にしてみれば肝が冷える光景だった。
「ワンパターンだね。次の動きが見えるよ?」
再度、Z4の瞳が分割される。また、『全てを見る』気か。
「行程、逆算します。その『見る』技術、借りますよ、Z4」
意味が分からない。Y1と続いてD3の幻影の目も、分割されていく。まるで、Z4の模倣をするかのように――。
「もう、礫は要りませんね」
Z4の手から今にも射出されようとしていた礫が、瞬間的に掻き消えた。
「な、なんで!!」
驚いて、二度三度試すZ4。しかし、生成した瞬間、消える。「嘘……、どうやって……」彼女の混乱は明らかだ。
「初歩的なことです。礫が生成できるなら、逆に『何もない』、も生成できる。後は、作られるタイミングと位置が分かればいい。貴女のように、ぶつけて相殺するまでもない。Z4、――――今、終わらせます」
Y1の幻影は、いつかX1が見た光景のままに、今度はZ4を圧倒する。頼りになる、X1が思い描くままのY1の姿だ。
「Z4……貴女の事が手に取るように解る。貴女はそんなに複雑なことは出来ない。器用じゃないから。だから見ただけでもマネできる。こんなに簡単に」
「簡単? ……それこそ、簡単に言ってくれるね」
「いえ、本当に簡単なんです。例えば、」
Y1は、自身の分割された目をぎょろりと回す。
「――――ああ、本当に貴女はX1さんが好きなんですね。親友の想い人なのに。でも、初めてだったから喜んだ。しかし、貴女は驚いた。彼はこんな人だった? 昨日のことのように想起できる。そんな風に想う前は、寧ろ嫌って、憎んでいたから。――なんで?! 最初に会った時、彼はあんなにも、『殺シ』を嫌悪していたのに!」
「うああああ!! あたしの、ああああ!! あたしの頭を書き出さないで!!!!」
断末魔の如き、悲鳴。それが、Z4という女性の、少女の、人間の本心なのか?
「これで、勝てる……!」X1が、腰を浮かせた。だが、隣にいたD3が彼の間違いを訂正するように言った。
「近いようで、違うよ。X1君。この世界は、現実ではない。個々人に属する……つまり、君の世界だ。我々のような模造品に本来どうこう出来ることは無い。さあX1君、覚醒するまでもない。この場で、超越えてしまおう。自分自身の疑心という名の虚弱を。今まで、D6と私がやってきた行為は全て、本来君の力なのだから……!」
その力は、既に、ここに――――。
「Z4さん……! もう、終わりにしましょう!!」
「ああああ!! ふざけるな!! ここは、あたしが用意した場所だよ?! 好きになんか! させない!!」
Z4が、這う這うの体で、しかしその身一つで、立ち上がる。
「お忘れのようだ……、『亡失の7観』。他人のエリアで活躍するのが、我らのような者の得意分野ですよ?」
すかさず、D3の牽制が入る。
「でも、まだだよ……! まだ、限界じゃあ……ない!!」
轟音。Z4の念が、地響きとなって響き渡る。視界が拉げる。傾く。立ち上がった、足が。
「動かない……?!」
泥のように変化した地面に、飲み込まれている。
「引きずり込まれるぞ! 無意識に!!」叫ぶD3の足も埋まっている。
「せい!」
軽い掛け声が聞こえた瞬間、叫んでいたD3の、「D……3、さん」
首が飛んだ。
「しまっ……」次はY1の首が飛ぶ番だった。
ここまでの流れを見ていたX1は気づく。Z4は、彼らの胴体と首の間に、『何もない』を強制挿入したのだ。
「X1君。君なら、出来る」「X1さん。あなたなら、超えられる」
首だけになり、ガラス細工の断面をさらした二体が、今際の際の言葉を発する。
しかし、もうあまりにもそれは、幻想として、あやふやな。
「こんなになっちゃったらもう、本物と違って、薄いガラクタだね。怖くもなんともないや」
そう口にするZ4の姿は、いつの間にかD3のガラス細工の傍にあり、彼女は地面の泥を固めて一気にその顔を踏み潰す。
「X1君、忘れるな、我々は、仲間、ダ……」
割れたガラスの様に飛散していくD3の影。途切れ途切れになる焼き付いた言葉が、しかし、彼に届く。
「仲間、ね。少し羨ましい、かな?」
だが、そうしてZ4の言葉に応えるはずのX1の姿は、Z4とD3の近くではなく、崩れたY1の破片の傍らに。
「……、なに?!」
「Z4さん、俺はあなたの思い通りにはならない。これが、俺の覚悟です!」
彼は砕けたY1の像から一際鋭利なY1の破片を手に取り、それをすぐさま自らの喉目掛けて。突き刺す!
「溶けて、どろどろ!!」
気づけば、X1の手中にあったY1の破片は鋭利さを失い、透明の冷たい粘液と化していた
「今、『死』によって目を覚まそうとしたの? X1様……、また同じことを――。そこは、変わらないんだね。だから、嫌いだった……」
「くそ……!!」
「もう、誰にも邪魔はさせない。これが限界じゃないってこと、見せてあげるよ!」
そして、黒一色の明晰夢がさらに裏返る。他人が介入不可能な、さらに深い夢と心の境界へ。X1は落ちていく。
それは無意識の海にほど近い、意識の内側。無限の色彩を持つ『球体』の中へ、彼らは落ちていく。
「そう、そうだったんだね……」
Z4とX1が落ちていく。ここは、Y1やD3が用意してくれた幻影の像も入れない最奥。
そこにZ4が侵入出来てしまうのは、彼女が真に一桁の『バイアス』であり、『第六の正常』に認められた精神干渉能力者である証だった。
「これが俺の、精神……、記憶なのか……?」
浮遊する具象化された、記憶の数々。古い部分にはノイズが掛かった、『X1の認識通り』の彼の精神模様がそこには広がっていた。
「ごめん……本当は、ここまでするつもりじゃなかったんだ。でも、X1様も、『Y1』達も手強かったから……。仕方なくて。……驚かせちゃったね」
この『意識内』の光景を見てから、Z4は心穏やかな表情を浮かべていた。それは、X1自身も。
「いや、俺は今不思議と落ち着いているんだ。変な体験だけど、俺の中だって確信っているからかな? 嫌な気分じゃない。だから、気にしないで」
二人は、光と記憶の中で宙に浮く。
「本当に不思議だね。中々無いことだから詳しくないんだけど、ここに来ると逆に心の主は余裕を持てるんだ。本当に不思議。外界から隔絶された世界……。きっとX1様がこの場所の神様だからだ」
「そうか……。そうかもな」
「だから誤魔化しも無し。神に偽りは必要ない。でしょ? だから、あたしもX1様の本心が聞ける」
「分かった。話をしよう、Z4。『分際提示の審判者』。そして、『亡失の7観』。君が訊きたいことは何?」
これで本当に会話が出来る。そう、確信できる。
本当に、安心と抱擁の空間。自分自身が、まるで母の様に、父の様に。そして、子の様に。自らを孤独という最終的な結果の侭に包んでくれる。
だから、決着の舞台がこの場所に辿り着くのはとても自然な事だとX1には思えたのだ。
「ねえ、X1様。言いたくないけど、『Y1』と付き合うのは本当に止めた方が良いと思う。彼女は愛情深いけど、悩みも多い人だよ。あたしでも分かんなくなっちゃう位に、『心が決まってる』んだ」
「それは彼女の、Y1さんの欠点じゃない。寧ろ美点ですよ、Z4さん」
「うん。そうだよ。そうだけど、違う。何て言えばいいか、あたしにも分かんないけど、違うんだよ……。きっと何かマズイ感じに……」
「それじゃ、説得にならないです。Z4さんは、それでもY1さんを疑えって言うんですか?」
「もう、あたしの方が良いなんて言わない。あたしを選んでなんて言わないから、せめて、あの子と一緒に成りたいなら、あの子の全てを受け入れる覚悟をして。……あたしにも見えない、彼女の、『強い』部分まで」
「そんな覚悟は、言われなくたってする。してやる! して見せるさ! これは、君の話が本当か嘘か。俺が信じるかの話じゃなく、そうだ」
「本当に分かってる? きっとあの子が本当に決めたことは、誰も覆せない。自分で気づき、考え抜いて、見つけた結論はあの子自身ですらどうにもならなくなるほど強いものになる。それでも、X1様はあの子と一緒に成りたいっていう我儘を通すの?」
「それが、Y1さんにとって、良いことなら」「良いことじゃないかも知れない!」
「それでも、彼女の意思を、望みを、願いを、希望を、祈りを、俺は認めたい。それだけの、事を。俺は彼女にして貰っているんだから。だから、叶えたいと思った……」
「それは、X1様個人の力量でどうにかなる『分際』を超えているかも知れない!」
「それでも彼女は認めてくれた……。一緒に居る決心をするには、それで十分だったんだ。Z4さん」
「うん、わかった。わかったから、もう言わないで」
根負したZ4はX1の言葉を止める。もう、彼女は彼の顔を見られない。
「もう、開放してくれますか?」
「大丈夫。後は目覚めるだけだよ。もう、X1様なら一人で目覚められるはず……。だから、先に行ってるね。さよなら、X1様」
話は終わった。溶けるように夢の中の姿を解いて現実に帰るZ4。もう、彼女が仕掛けてくることはないだろう。
だから、何時かの様に、X1は腹に力を籠める。確かに不安はある。たった一人だったとしても、自分程度が一人の人間の未来を約束することなどできない。
出来たとしたら、それは譫言、戯言に過ぎない。だから、これが可能性上限なのだ。
今を生きる、自分自身が、確信する『正常』な判断。『亡失の7観』が例え『正常化』を施したとしても覆らない、本心をここに。
彼女を理解したい。話を、意思を、認めたい。それは、こんな夢の世界に留まっていても出来ないこと。
打ち破る。虚飾の『正常』を『真の正常性』によって上回る。それは、想いの力。『虚飾』を凌駕する、原初の『仮想』。それをX1は開放する。
「俺は、Y1さんと!」
それが、力。
「Y1さんと、この人生を、生きたい!!」
その声と共に。夢が、仮初の楽園が崩壊した。
頬を、叩かれている。痛いが強く叩かれている訳ではない。
起きる時間。起こすのは、母親か? しかし、顔を思い出せない。
頬がやけに暖かい。頭の中が沸き立つ。
X1は、眠っていた。そのまま目覚めぬまま眠る者だって居るかもしれない。この穏やかな優しい熱に、甘えていたい気持ちもある。
だが、彼に必要だったのは――――。
起きた。覚めたのだ。まだ、ぼんやりとする意識のまま彼は目を開く。
そんなX1の頬に、優しく手を添えているのはY1だ。
「おはようございます。只今、戻りました」
目の前の彼女に、彼は応える。
「おかえりなさい、X1さん。お疲れさまでした」
Y1もまた、迎えてくれる。
彼が眠っていた305号室の玄関には、D3の姿もある。彼の表情も、一安心といった様子だ。
そして部屋の奥を見れば、開いた窓の縁に腰掛け風に吹かれているZ4の姿もある。
彼女の頬には泣いた跡。だが、今はスッキリした顔でこちらの様子を眺めていた。
もう、彼女が任務を続行することも、能力で実力行使される可能性もないだろう。それくらい、彼女の表情はそんな後腐れの無さを物語っていた。
「Z4、さん……」
X1が呟いた直後、彼女は姿を消していた。窓から飛び去ったのか、それとも自分が寝ぼけてZ4の姿を幻視ていたのかは、分からない。
だが、それでいい。
何も始まらなかった関係性の結末など。何も起こらない、が相応しかろうと。
今もまだ、X1の網膜にはZ4の無邪気な笑顔が焼き付いていた。
誰も居なくなった305号室に『分際館』の看板を仕舞い、窓と玄関の鍵を閉める。これで『分際館』は本当に閉店だ。そうして三人はその場を後にする。
一瞬、一階にZ1が会釈をする姿が過った気がしたが、X1の気のせいだろう。辺りを見渡せば、二時間前はあれだけ賑やかだった甲物件が、今や日常の静けさを取り戻していた。
それからX1とY1は、帰途に付くD3の見送りをする。今回は、彼の功績が大きい。
「X1君。これを聞いても答えてはくれないだろうが、敢えて訊こう」
一階まで降りた所で、ふと、D3が気になる事を言ってくる。
「なんですか?」どんな内容の質問なのか、X1には想像が付かない。
「一体、君は何者なのか、と思ってね」「へ?」当然の疑問だった。
「君は、何人もの『バイアス』と遭遇し、時に敵対してきた。それにも関わらず君はこれに順応し。偶然の力も借りて、場を凌いできた。これは、十分『異常』なことだ。君はそれでも、この社会の『正常』を名乗れるかな?」
Y1も、黙って聞いている。自分は、どう言葉にするのが正解だろうか。X1は少し考え、こう答える。
「俺は、それでも周囲の人間と幸運に支えられているだけの『普通』だと答えます。何故なら俺は、ただのしがない『兼業大家』なんですから」
日が落ちた街は、火照る熱を冷ますように引き締まっていく。
「そうですか。では、また『丙社被害者の会』がお役に立てることがあれば」と、だけ残して去っていったD3の背中はもう見えない。
彼は、X1の答えに満足したのだろうか。やはり、答えは見えない。
「帰りましょう、私達の家へ」Y1が、X1の手を握る。
一瞬、『どっちの部屋がですか』と言ってしまいそうになったX1だが。
どうということはない。ウチの契約では、急な同居人の増加は認めていない。考えてみれば、Y1からそんな届け出は貰っていない。
だから、彼女の言う『私達の家』とは。
「はい。お腹も空きましたからね。お昼も、そんな食べてなかったし」「私もです」
これから305号室はどうしようかと、X1は考えるがそれは後で考えよう。
きっと、Z1にでも頼めばZ4に連絡を付けてくれるだろう。そんな風に考えて、X1は自宅に戻っていく。
「ただいま」「ただいま。おかえりなさい」「おかえりー」
誰もいない部屋だとわかっていても挨拶をしてしまう。いつものX1の習慣だったが、隣のY1が返事をしてくれる。それが、耳心地よく、……「ん?」
「はぁー……、合鍵ですか……」Y1が嘆息する音が聞こえる。
努めて平然を装い、X1は廊下を歩いていき、リビングに入る。そこには、『彼女』が頑張って温めたらしいレトルト料理のフルコース。それが、テーブル一杯に広がっている。
そして、エプロン姿で髪を後ろ結びにした『亡失の7観』がそこにいた。
「御馳走だよ! X1様!!」
「本当に、貴女は……。何で此処に? 元居た場所に帰ったんじゃ……」
そんな疑問に、Z4はあっけらかんとして。
「また任務を受けたんだ! 内容は、えーと。とにかくX1様と『Y1』と一緒に居れば良いんだって。甲物件で住み続けていいみたい。また一緒だね、二人共!」
やっぱり、『バイアス』ってこういう人たちの集団なのかな? とX1は頭を抱えたのだった。
エピローグ
同日の深夜。Y1はZ4と共に、305号室に居た。
Z4から自分の治療を受けて欲しいとの要請を受け、断り切れなかったが故の現状だ。
二週間前なら聞く耳を持たなかったが。Y1は今、多少は試してやってもいいだろうという気になっていた。
「なんで一月前、あたしを助けたの?」
治療に必要であるらしい布団を敷きつつ、Z4がY1に尋ねる。Y1は敷かれた布団にさっさと仰向けに寝た。
「貴女は同罪だけど、他の連中とは違かった。奴らと同じように扱うのは、気が咎めただけです」
Y1は思い出話をする。幼き頃の、鮮烈な記憶。そこには当然Z4の姿もある。
「でも、今はその限りじゃないんでしょ? あたしは、あなたの男を奪おうとしたんだから」
「それを分かってて、私の治療を優先しているんですか? 馬鹿ですね。まだ自分の力で何とか出来る気でいる」
「うん、そうだよ! 私は『亡失の7観』。精神操作の能力者! あなたの悩みだって解決しちゃうよ? 『Y1』!」
彼女は親しみを込めて、Y1の頬にキスをする。Y1は、それを冷ややかな目で返すのだった。
「あたしは一度、あなたに催眠治療を試した。あの時はあたしも子供で、あなたのトラウマを破れなかったけど。でも、今度こそは、あなたを治療してみせる……。もう一度試してみる気はない?」
「彼氏を盗ろうとした女に、自分の大事な精神と脳を曝け出す? そんなことが出来る人間がいたら、ソイツは狂ってますよ『亡失の7観』」
「だよね。でも、その『狂ってる』にあなたは当てはまるんじゃない? 嫌なら、いいけどね。あなたの問題だし」
Z4にはY1は彼女らしくもなく、迷っているように見えた。それも当然。Y1にとって、Z4は今や敵方。精神操作を自ら進んで受けるなど、愚の骨頂だろう。
「あなたでも、葛藤することがあるんだ……。これも愛の成せる業かな」
「『亡失の7観』……」
「何?」
「私の彼への想いに、手を出すつもりじゃありませんよね……?」
Z4はその言葉に思わず頬を綻ばせてしまう。考え込んだ挙句、出てきた返答がそんな乙女な反応だとは。
「アッハッハ! 信用しなよ、『Y1』。『バイアス』の誇りにかけて、今更そんな無粋なマネはしない。あたしだって、その気持ちがどれだけ大事なのかくらい分かってるつもりだから!」
「よく言います。『バイアス』に誇りなど、無いでしょうに……。それに、私からX1さんへの想いを取り除ければ、それで本来の任務達成なのでは?」
「!……。まあ、そうだけど、任務失敗の報告しちゃったし、もうなしで」
「分かりました。貴女を、信用します。『亡失の7観』。『バイアス』ではなく、貴女という人間の純粋さを」
「純粋、って褒められてるよね? ね?」
馬鹿にされている気分なのは気のせいだろうか? Z4はそんな可笑しな気持ちに不満を表明しながらも、彼女の治療を開始した。
一時間後、顔を真っ赤にして疲れ切った様子のZ4は敢え無く治療不能を宣言し、Y1の隣に寝転がる。
「だーめだ、これ。アンタの精神『錠前』が堅くて、手が付けられないや。前より堅牢になってるなんて、聞いてないって……、うーー! 腹立つ!」
大の字に伸びをしたZ4の伸ばされた手足を、邪魔っ気に振り払いながらY1は起き上がる。
「全く、治療が専門じゃないのに安請け合いするから期待したのに拍子抜けですね、エセ催眠術師。普通、子供の時より大人の方が精神が複雑なのは当然じゃないですか。ああ、貴女は同じでしたね」
「そういう次元じゃないって……。あーあ。これでも、そこらの治療師よりはエスパーな自信はあるんだけど……。お手上げ!」
「これで、治療費を請求してきたら殺しますよ」
「オカネいらない!!」
「良い返事ですね。似非が」
「『Y1』、やっぱりあたしに厳しくない?」
昔から、Z4は鬱陶しい女だった。能天気で、相手の事情はお構いなし。しかし、Y1自身も己の欲求に従う性質なので、そんなに相性が悪いわけではないのだ。
だから、これまで腐れ縁が続いたのか? だが。
「二回連続任務失敗。これで貴女の『バイアス』での立場も危うくなる。もう、流石に会うこともないでしょう」
そうY1は冷静に告げてみるが、Z4は一皮剥けたかのような明るい顔で言葉を返してくる。
「自分より明らかに実力が上の相手に負けた程度で格落ちさせられるほど、『バイアス』は馬鹿じゃないって。この結果は、どうせ想定済み! 『Y1』、あなたには想像できないかもだけどね」
月明かりに照らされたZ4は、確かに少し大人びたようにY1には見える。
「なら、また邪魔しに来ると?」
「いや、やめとく。今度こそ殺されかねないからね。あたしじゃ、X1様には釣り合わないみたいだし、あなたが相手じゃ、分が悪いや。じゃ、また明日ね『Y1』。また話そ!」
治療は失敗し、何も得るものは結局なかったが。自室に帰るY1の足取りは不思議と軽い。やはり、エセはエセなりに技術はあるのかも、とY1はZ4の評価を改める。
「はあ……。また話そ……、って。これからもコイツの相手をしなきゃいけないんですかね? 私」
憂鬱な表情を浮かべるY1。X1に押し付けようかとも思ったが、それでは元の木阿弥ではないか。
何故、こんなことになったのか。Y1は、彼女を押し付けてきたZ1の事を恨みたい気分だった。
一方その頃、Z1は今回の結果に満足するように報告書を作成していた。
『第六の正常』も、『バイアス』の上層も。必要な時に必要な仕事さえすればいい、というスタンスを『隊員』に期待している。
それだけは、あの組織の良い所だとZ1は思う。
だからこそ、今回と前回の『亡失の7観』による失敗など、どうでもいい。
寧ろ、この展開はZ1にとって、正に期待通りであった。考えようによっては、『分際館』の開業さえも問題ではなかった。
「しかし、流石は『亡失』……と言った所」
寝静まった『X1』を横目に、Z1は一人呟く。
「彼どころか、警戒していた『Y1』すらも篭絡するとはね」
Z1は、Z4の上の者として彼女の成果を評価する。
「――仮に、Z4本人にその意図が無かったとしても。最後には二人共、『合理的な手段によって、亡失の7観を甲物件から追い出す』という目的を見失っていた。そして時には、X1さんに、Z4自身を庇いさえさせた」
それが、言わずと知れた彼女の強さだと誰もが解っていながらにして。しかし、多くの人間が抗えない彼女の特性。
「これでいい。これでまた一つ、『安全』が確保された。私は、可能ならば意味のない欠落を良しとしたくはないのです。それは貴方だって同じでしょう」
そうですよね、『X1』。
――月は満ち、彼らの夜は静けさを取り戻す。
彼らはそれぞれ、旧友と。家族と。恋人と。そして昔の頃の『悪夢』を見る。
皆違う夢なれど、胸に抱えるは同じ『絶望』。
そんな心を、夜空の満月は優しく見守っていた。