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A Gloomy Part-Time Lord "X1" of a Rental Apartment Building

或る兼業大家"X1"の憂鬱

エピソード6 動転

エピソード6 入居する審判者



 ここ数日、X1は相談が出来る人間を探していた。或いは、愚痴れる相手が欲しかっただけかもしれない。
 しかし、考えれば考えるほど、自分が心の内を話せる相手というのが、非常に少ないと理解する。
「Z4のことは、一旦心配しないでください。X1さんは油断せず、かと言って過剰に緊張せずに仕事と日常に徹してくだされば十分です」
 と言いながら、朝から何処かに電話をしている。「予定を空けて……」と僅かに聞き取れはするものの、友達に、といった雰囲気でもないので、仕事場と休暇の交渉でもしているのかもしれない。
 で、あればなおの事今回の事態がY1に掛ける負担が大きいということになってしまう。
 彼女に問題の対処の全てを任せるというのは気が重い。それが、X1の偽りない本音だった。
 しかし、自分に出来るのはこの甲物件の大家としての振る舞いが主で、それ以上のことの力になれるとはとても思えない。それが歯がゆく、情けなかった。
 それに、当然だがX1自身の人脈もこと、このような状況に於いては、脆弱の一言。
 先の境界線問題ならともかく、『バイアス』について相談できる知り合いが居よう筈も無い。
 そして、重荷を背負わせてしまっている自覚のある、Y1との関係についても。
 出勤の支度をしながら、X1は行き詰る。
職場の同僚あのひとたちにでも話してみろ……、何て言われるか。それに、M2の一件があってからM4との付き合い方が難しいし、M3は元々気が合わないし、部長は、部長だし……」
 職場であるM不動産に向かいながら、X1は携帯電話の電話帳を流し見る。そして、見つける、思い出す。
「ああ……居る。Y1さんと俺の、共通の知り合いが……」
 一番助かる距離感の『仲間』との交流が、今も確かにあることを。

 『丙社被害者の会』。
 一年前、X1と共にZ1所属の丙社と裁判で戦った組織だ。D1、D2、D3、D4、D5そして、D6ことY1。そこにX1が加入した七人が基本メンバーの、丙社対抗組織。
 今回の問題には確かに旧丙社の影がある。何よりZ1自身が裏で糸を引いている。その意味で以前から連想の如く、彼らのことは頻繁に思考に上っていた。
 しかし、『バイアス』関連ならば別問題だ。丙社相手ならばまた同じように戦えるかもしれないが、『バイアス』としての本性を現したZ1らに敵う組織ではない。
 そういった事情から、相談をする対象としてあまり見れなかったが、精神的支柱としてならこれ以上ない心強さを持っていた。
 少しでも心を軽く出来るなら。彼らが事情を知らずとも『仲間』を続けてくれたなら、Y1も同じように楽になるかもしれない。
 『バイアス』については話せない。彼らを危険に巻き込みかねないから。だが、その限りでないならX1は、彼らをまた頼りたかった。
 ふと思えば、丙社被害者の会は最近動きがない。丙社はすでに一年以上前に解散しているにも関わらず、被害者の会がまだ存在しているということは、元丙社社長に対する未解決の賠償問題があり、それを解決する考えがあるという事だ。
 しかし、X1が知る限り、そのような賠償請求の動きは最近聞かない。なら何故、まだ丙社被害者の会はその組織を維持しているのか。
 疑問はあるものの組織が存続している現状が都合が良い事には変わらない。X1は早速休憩時間に彼らに電話を掛けてみる。
 だが。『優先通話』の『電話交換手』とのやり取りの後に通じた彼らは、何故か皆そろって深刻そうだったり焦ったりしていた。彼らも忙しいのだろう。
 そして、決まってこう言われるのだ。「D3に訊いてみな。今なら、彼が良い」と。
 結局、会う約束をしてくれたのはメンバーの推薦もあったD3一人。X1自身とは関りが薄いが、彼は毅然とした老人だ。当然不足はない。
 D3も電話口で、相談相手となる事を快諾してくれた。
「X1君。お困りなら、相談に乗る程度はさせて欲しい。君は丙社を相手に共に戦った仲間だ。それに、君はT社の件でD2に協力してくれたことだってあった」
 彼にどういう印象を持たれていたのか、あまり判然とせず緊張していたX1にはこの言葉はとても暖かい。
 お互いに都合のいい時間を検討したところ、日曜日の昼にD3行きつけの喫茶店で待ち合わせることとなったのだった。

 当日、約束の喫茶店に先に着いて待つ。時計を気にしながら待っていると道の向こうから老齢の男性が現れた。彼がD3だ。
「遅くなってすまない」
「いえ、こちらこそお忙しい中、申し訳ありません」
 頭を下げるX1に対し、D3は慣れた様子で喫茶店の入り口をくぐる。
「そうでもないさ。X1君こそ、元気そう……ではないようだね。失礼した。まあ、座りましょう」
 椅子を引いて、X1に席を勧めてくれる。お互いに席につき、初めに口を開いたのはD3だ。
 喫茶のマスターにオリジナルブレンドコーヒーを二杯頼む。
「もしかして……」「そう、君の分だ。ここまで来てもらったからね、ここを楽しんでもらいたい」
「俺の用事なのに、いいんですか?」「ついでに私の趣味に付き合ってくれるんだ。当然だよ」
 趣味というのはこの喫茶店の事なのだろうか? 確かに拘りのありそうな雰囲気で、D3はそれに合った雰囲気をしている。
「では、お言葉に甘えて」「私は、コーヒーにクッキーも添えようかな。マスター、頼むよ」
「軽食もあるんですね。俺は、サンドイッチをお願いします」
 昼食前だったX1は、D3を見て少し食指を動かされたのだ。マスターは注文を聞き入れて、厨房に行く。
「私はこの店が好きなんだよ。何より静かで、気が落ち着く」「俺もそういうの、好きです。確かに……、静かですよね」「ああ、全くもって、それが良い」
 この店にはマスターと自分達しかいない。とても落ち着く場所だ。ただ、今はそれだけではない。
 X1は緊張しながらD3の優雅な佇まいに、見入ってしまう。
「それで、話とは……何だい? 仕事、知り合い、それとも彼女かな」
 D3は飲み物が運ばれてくるまでの間、ぼうっとしていたX1に優しい声で訊いてくる。
「え? いや……あの、その……。仕事と、彼女……ですかね」
 一見、犬も食わないたぐいの話題に捉えられかねない言い回しになってしまったが、D3は「そうか。……D6君は、元気かい?」と静かな口調で促してくれた。
「俺、その、Y1さん。ああD6って言った方が分かりやすいですかね?」
 丙社被害者の会では、Y1はD6という呼び名で活動していた。理由は言わずと知れたこと。
 インターネット経由で知ることも多い会であることもあり、ハンドルネームで呼び名が定着する可能性は大いにあったからだ。
「呼びやすい方でいいよ。どちらでも気にはしないさ。同じだからね」
 答えるD3はその端正な顔を緩めて笑い、X1は僅かに安堵する。
「ありがとうございます。で、そのY1さんなんですが……えっと……。俺、Y1さんに最近負担、というか。頼り切り、というか。そんな感じなんです。しかも、困った人もウチに入居……。まあ、これはいいとして。どうすれば、Y1さんの力になれるか、分かんなくって」
 これでは相談にならないかもしれない。情報を欠き過ぎて、彼を困らせてしまうかもしれない。そう思っていたX1だったが、D3は一考の後に小さく肩を竦める。
「それは、Y1君が、そう言ったのかい? 『頼り過ぎるな』だとか、『X1も、もっと働いてよ』と」
 言われてみれば、そうではない。X1は、違うと答える。
「なら、君が悩むべきは『どうしたらY1君の助けになれるか』じゃない。『どうやって、彼女に感謝を捧げるか。彼女に対し如何に恩情を感じ、それに相応しい態度を取れるか』、だよ」
 確かに、そういう視点から考えたことはなかった。X1は、Y1を助け、彼女に楽をしてもらう事ばかりを考えていた。それは、頑なな拘りだったのだろうか。
「それは、恩を返す。と、いうことですか?」
「近いようで、違う」
 マスターから差し出されたコーヒーを受け取る。D3は受け取ったカップから香りを楽しみ、X1にもコーヒーを勧めながら答える。
「恩とは、人間の間を行ったり来たりするものではない。個々人が勝手に味わうものだ。さあ、どうぞ。お口に合うかな?」
 X1は促されるままにコーヒーを飲む。こんなに気品のある喫茶店のコーヒーだ。さぞかし無条件に美味いのだろうと想い馳せていたX1だったが……。
 その味は酸味と苦み際立つ、見た目通りのブラックコーヒー。そう、X1はコーヒーをブラックで飲むのが不得手だった。それを、今彼は思い出したのだ。
「……うん。ブラック、味わい深いです……」
 味は悪くない。コーヒーとしての体を成している。ただ、好き好んで飲むかと言われれば否であるだけだ。そんなX1の様子を微笑まし気に見守るD3。
 どうやら苦手であると、彼にバレてしまったようだった。
「ふふ……。これと同じだよ、X1君」
「へ……?」
「私は、このコーヒーをこのまま美味しく頂ける。しかし、君にとっても同じかどうかは分からない。当たり前だけどね」
 言葉の通りD3はそのコーヒーを一口飲む。そして大きく一息つくのだ。そんな姿にX1は急にブラックを楽しめない自分に羞恥を覚えてしまう。
「それは、そうです。……すみません」
「謝る事じゃないよ。ここに砂糖もある。そして、それでいいこともあるということだ」
 X1は自分のコーヒーに砂糖を入れながら、それがコーヒーの純粋な味を汚していないかとも思う。
 だが、D3やマスターの表情はそうは語っていない。彼らは『その程度ではコーヒーの意味が死ぬとは思っていない』のだ。
 それでいいこともある。――それを赦される。
 X1は、『バイアス』問題への消極的対応をY1に『赦され』ていたのではなかったのか? それを望まれていたのではなかったのか?
「X1君、君は、悩むべきでないことまで、悩む性質たちの様だね。ブラックが楽しめないのは悪い事じゃない。なのに全部、自分のマイ汚点バツドだと思い、その身一つで責任を抱え込もうとする。王様タイプだ」
「王だなんて、冗談……ですよね?」
 大層な言葉に感じたX1は、すぐ否定する。そんな訳が無い。自分には相応しくないと。
 しかし、D3は微かに沈んだ顔でいる。冗談でないことは明白だった。
「私は真面目なつもりだよ。君はそんな基準で、これまでの人生の重要な判断をしてきた。違うかい?」
 X1に自覚はない。しかし不思議と、しっくりくるのだ。彼の言葉が何故か、透き通るように。
「しかし、王は時に傲慢である。実際にはまだ王な訳ではないX1君には一番の、それが短所と為り得るだろう」
 傲慢。X1はその言葉が気に掛かる。自分はそんな人間ではないと言いたい。だが、D3の言わんとしていることは、王の一文字を除くならとても普遍的な教訓。
「自分の身幅を、弁えろ。ですか?」
「そうだね。君は出来ないことをやろうとしがちだ。そして、それは君の傲慢さ故に。それは君の美徳だが、美徳として作用するのは稀だ。例えば、丙社を訴えた時のようにね。勝てたが、あれは極めて稀なケースだった」
「上手く行きすぎたって事ですか」
「あの出来事自体に、問題は無いだろう。しかし、あれは時の奇跡だ。二度目はないと皆思っている。分かるかい? 君が来るまで被害者の会は、訴訟を躊躇していたんだ。実行に移せたのは。君が、きっかけだったんだよ」
「俺が? そんな訳。皆さん、準備があったじゃないですか。俺はそこに便乗したようなもので」
「Y1君を、あそこまで動かしたのは、君の存在だった。君が、来たからだったんだよ」
 言われて理解する。あの時、X1自身はD6という人物を初対面として扱っていたが、D6――つまりY1側からすれば、彼女にとって既知の人物であるX1と別人として話している状態。
 それは突然知り合いが、自分からは公にしていないコミュニティに飛び込んで来たようなモノ。当時のY1の驚きや心境の変動は推して知るべしだろう。
「……そう、ですか。俺のことを、Y1さんが、あの時から……。だから、あんなに。あんなに、彼女は頑張ってたのか……」
「そうだ。X1君。君は、Y1君に愛されているが、それは以前から君が想像していた機序とは本当は違うのかも知れない。そして、君はY1君をどれだけ知れたんだい?」
 それが、あまりにも大きすぎるから。目立ち過ぎるからこそ見えていなかった。そんな盲点。D3は、その勘違いを教えてくれていたのだ。
 一度気づいてしまうと、X1は急に寂しさを覚える。しかし、きっと先程までの自分は、この感触こそを無意識に恐れていたのかもしれない。そう、X1は自覚したのだった。だからこそ、偏りBIASのない現実として彼女を見る。見ることが出来る。
「まだ、きっと、何も知らないんだと、思います。分からない事、ばっかりで。でも、彼女が喜んでくれてることは、分かる。そうだ……Y1さんは俺に不満があったら、ちゃんと言葉で言ってくれてるんだ」
「大切な彼女に集中し、彼女の表情をしっかり見なさい。それ以外は、王になってから考えればいい」
「……王になる予定はないですが、分かりました。本当に、ありがとうございます、D3さん」
 X1はD3に感謝の言葉を述べると、コーヒーを飲み干した。X1は彼のおかげで、これからの自分に必要な大切なことに気づくことができた。それは、Y1に対する心構えと、自覚。そして、違和感。
 だが、そんな違和感はどうでもよかった。今は、全く重要じゃない。
 始まりがどうであれ、X1とY1は共に愛し合えている筈なのだから。
「いいよ、それに次はカフェモカか、カプチーノなんてどうだい?」
 D3から次に勧められたカプチーノは、すっと悩みが引いていくような円やかなミルクの甘味があり。X1の味覚にも合う、とても美味な一杯だった。
「ふう。これ、おいしいです」「それはよかった」
 そんな緊張が緩和した間隙を狙うかのように、店のキッチンから軽食が運ばれてくる。サンドイッチとクッキーだ。最初に頼んでいたことをX1はすっかり忘れていた。
 そのクッキーを優雅に味わうD3を見て、X1はどうしても現在の自分の落ち着きのなさを感じてしまう。
「ああ、俺も、D3さんみたいに余裕のある振る舞いが出来たらなぁ。そうしたら、あのZ4にも……」
「Z4……?」急にD3の声色が変わる。
 突然の反応にX1は意表を突かれ、自分が不味いことを口にしたのだと思い至る。
「その、忘れてください……」
 X1は大家として甲物件に住んでる住民の情報を、みだりに喧伝けんでんするものではない。しかも、『バイアス』関連なら猶更なおさらの事。
 しかし、意外にも話はそれだけでは終わらない。D3の視線が、いつまでもX1の目から逸れない。ゆっくりと口を開いたD3は、その理由を語る。
「それでも、聞き捨てなりませんね。それは我々であるからこそ。――何故ならその名は、丙社幻の危険因子、第四位の女。通称『分際姫』の公的名称ほんみようだからだ。現在の彼女に会う機会でも?」
 X1は失念していた。可能性はあった。Z1の部下であるなら、Z4も元丙社社員である蓋然性は高い。そして、その精神操作能力を丙社が活用していたとすれば、その情報が『丙社被害者の会』に出回っている状況はとても自然に思えた。
 だが、呼び名が違う。似てはいるが、X1がY1から教わったときはもっと長い名前で――。
「確かに……彼女はZ1の仲間の様ですが。……あれ? 『分際姫』? 『分際なんとかのなんとかしや』じゃなくて?」
 その言葉を聞いた瞬間、今度はD3の血相が変わる。だが、すぐに落ち着きを取り戻し。持ち上げていたカップを再び置く。しかし、それでも何か悩んでいるような、困ったような表情になってから、じっとX1の方を見つめてきた。
「えっと……、まさか」とX1はたじろいで、マスターの方を見るが、こちらも緊張を発しているのが分かる。先程には無かった――、それは『異常』な緊迫感。
「本当に、」
 X1は言葉を続けられない。その後を形作る全ての意図が、窒息死したように動作しない。その瞬間――。

「失礼……電話だ」
「えッ? ええ……」
 D3の言葉で緊迫から突如解放されたX1が目を白黒させていると、直後にD3の電話が鳴り始めた。彼は携帯電話を持って、マスターに一言「逃がすな」と残してから着信音と共に店外へ出て行く。
 X1は茫然自失で、店外で通話中のD3の戻りを待つしかなかった。

「済まなかったね。しかし、X1君も不注意だ。聞いていたのが我々だけでよかった」
 通話から戻ってきたD3は、また、穏やかな声音でそう、諭す。
 その言い方は明らか。彼――D3は、『知っている』のだ――。
「いや……、普通の人は、知らないんじゃ、ないですか?」
 だからと言って、公共の場で言いふらしていいとはX1自身も思わないが。それでも、慣れない彼はその責めを受けきれない。
「そう考える気持ちは分かる。だが、『バイアス』自体や彼らの事を知っている『他勢力』に見つかってはコトだ。君も聞いたことくらいはあるだろう。『特定の宗教について語る際、周囲でその信徒が聞いている可能性を忘れるな』と」
 確かに、X1は何処かで聞き覚えがあった。周囲に人がいる空間において、誰がどのような信仰を持っているかは一目でわかるものではない。だから言葉に注意しろ、と。そんな内容だったと思う。
「これも同じだ。彼ら『異常イジヨウ』は『尋常ジンジヨウ』の内に紛れている。私の様に、常にね」
 じわじわと、じわじわと塗り込められていく。世界が、常識が。少しずつ、少しづつ、塗り足されて、湧き上がって、浮かび上がる。
 誰が異常で、誰が普通か分からない。今、分からなくなったのか。元々、分からない世界だったのか。
 Y1に説明を受けた時も、そうだった。だが、今D3すら『バイアス』の存在を知るという事実が余りにもリアルに思われ、X1その浸食感に怖気が走る。
「すみません。注意していたつもりだったんですが……まだ、現実感が無くて。直接『バイアス』を見る経験をしたっていうのに、きっとまだ俺の中ではリアルじゃなかったんです」
 凹むX1の表情を確認するとD3は一息付き、クッキーの皿を差し出す。
「分かった。それに今日は君を怖がらせるために会ったのではないから。ここまでにしよう。そして、」
 X1が一枚クッキーを受け取ったのを見て、話を続ける。
「次は私の質問に入ろう。先程も訊いたことだが、X1君。――Z4のことだ。君は、Z4の被害に遭ったのかい? それも、つい最近に」
 もう、知られているのなら話は早い。X1はZ4がX1が所有、管理する甲物件に居住している事実をD3に打ち明けたいと思った。しかし、X1はすんでの所で思い直す。
 例え『バイアス』であっても、Z4は甲物件に住んでいるイチ個人だ。客の個人情報を、他人に公開する。これを自身に許容するなら、それは最低限のモラルを無視するという判断をしたことと同義だ。
 それを避けるなら、X1はこう言うしかない。
「その……まだ被害は受けていません。ただ、彼女はZ1と一緒に何か企んでいる。そのように思いました」
「それは、Y1君も承知か?」
 ここでD3の口からY1の名が出てくる。X1は躊躇した。Y1も『バイアス』について詳しいことをD3に話して大丈夫だろうか。
「……そう、その調子だ、X1君。その注意、思索、検討。それが情報を扱うということだ。そしてこの件に関しては安心してくれていい。D6――、Y1君は我々の仲間だ。君の味方であるのと同じようにね」
 そう言われてみれば、その通りだ、とX1は得心がいく。Y1は、D6としてD3と共に戦ってきた仲間だ。この二人が同様に『バイアス』について知っているのは、奇妙な符号でも何でもない。当然のことだと考えていいのだ。
「……知っています。Y1さんは、自分の仕事と並行してその対応も模索してくれている。俺は、対策を彼女に依存しているそんな現状を悩んでいた。でも、だからといって余計なことをしてしまっては元も子もない。日常を徹底し、彼女の意図を信頼する。今日はD3さんに、それを学ばせて頂いたんです」
「それは良かった。しかし、このように食い込まれているとはね。話が違うと言わざるを得ない。通常では有り得ない対応が行われている。何かが起ころうとしている。焦りを感じる。今の日本の景気は良くはないが特段悪くもない。アメリカが原因? ならば何故日本で。それが原因? ありえない。……ふむ、読みきれない。私も耄碌もうろくしたか……」
 静かに呟くD3。その言葉の意味は、勿論X1には分からない。
「D3さん……どうしたんですか?」
「いや、気にしないでくれ。それで、君たち二人でZ4の対策をしている。と、いうことでいいな?」
「はい。Z4は『バイアス』の精鋭だと聞いています。そのこともあって具体的な対策はまだ、取れていません。ですが、その……、こんな私的な相談をしてもらった上で、さらに『バイアス』の相談にもD3さんに乗って貰う訳には……」
「違うよX1君……その逆だ。私が推薦されたのは暇だったからだが、運が良かった。それに、『丙社被害者の会』に相談したというのも良い判断だ。何故なら、我々はZ1やZ4らの情報を集めていた。その積み重ねがある。これが有用でない訳が無い」
「おお……!」
「それに私は、君がY1君とも上手くいって欲しいと思ってる。こう見えても、『丙社被害者の会』の名は伊達ではない。丙社の残党が関わっているとなれば、私たちの得意とする所。そうだろう? X1君」
「その、通りだと思います。本当に、助かります」
 今、X1は希望を手にした。この状況を解決に導く可能性がある、情報。それを、いまからD3から聞けるのだ。
「では、私の知っているZ4という女性の情報と印象を教えよう。『丙社被害者の会』の仲間への情報共有だ。受け取って当然のモノとして考えてくれ」
 そして、説明が始まる。D3の穏やかな口調と追加で提供されたデカフェコーヒーで、X1は落ち着いて説明を聞くことが出来た。
「Z4。君も知っているだろう、あの一貫して精神が幼い印象が強い彼女は、過去に『そんな分際で、丙社あたしら○○マルマルする気?』の決め台詞で有名な、丙社のカモハンター型社員だった。○○マルマルには、取引、とか、交渉、喧嘩、等の語句が入る。その口調から『分際姫』と命名された。私のセンスではないがね」
 頷くX1。しかし、意外でもある。彼女は、ちゃんと働いていたんだな、と。
「要は、相手の器量を見抜いて、脅しで屈しそうな対象を選別する役割を任されていたんだ。でも、活躍自体の報告数は少ない。大口契約の時だけ駆り出される隠し玉だったようだね」
 相手の心理を『見抜く』。エスパーを自称する彼女らしい役割だ。
「そして……、ここからは君が『知っている』から言える情報だが」
「……、はい」
「その正体は、秘匿同盟『第六の正常』直下『バイアス』の一桁エース。『分際提示の審判者』の通称を持つ、『亡失の7観』であったんだ。これは、知ってるんだよね?」
「ええ……。Y1さんに教えて貰いました」
 Y1がZ4の幼馴染だという情報を、X1は伏せておく。個人的な情報であろうと思うからだ。もし、重要な情報ならY1本人がD3に直接共有するだろう。
「そしてここからが、対策の話だ。少ない情報源から、さらにまともに話が出来る情報源となると相当に絞られたが、ある程度形になった、これが『亡失の7観』への対抗策だ」
 そしてすっと持ち上げられたのは、コーヒー。漆黒の液体がカップの中で揺れている。
「飲み物……、ですか? 毒を盛られるとか?」
「おっと、分かりづらかったね。私が言いたいのは『珈琲涅カフエイン』、つまり眠らない事だ。彼女は対象が眠っている際に最大の能力を示すと思われる。彼女のターゲットの殆どは寝込みを襲われているからだ。残りも、周囲の人間共々強制的に眠らされている。だから、眠っていない間は手は出せない筈だ。だが……」
「そんな、ことは不可能です……。仕事もあるし、第一、耐えられない。あと、強制的に眠らされるって……。やっぱり薬物ですよね。防ぐのにも、限界が……」
「そう、しかしこれが我々の導き出せた対策の全てだ。それだけ、一桁ナンバーは手強いということを覚えてくれ」
 それは絶望的な宣告だった。一桁ナンバー、その圧倒的能力の絶対性。彼らの前では、小細工など通用しない。だが、何故かそう発言した当人であるD3は、諦めた顔をしていなかった。
「しかし、我々。ではなく、私が導き出した対処法が、ある。それは、時間が掛かる上に実証実験も、まだ。そして、上手く行っても実際に効果が有るかは不明。されど、眠らないより、ずっと実効性の高い、非『現実的』な手段。そんな話なら、聞かせてあげられる。聞きたいかね? X1君」
「聞きます。聞かせてください。その方法……!」
 彼は、あまりにも真剣な顔で言う。
「イマジナリー・フレンドだ。簡易的な、ね」
 ショックで、X1は『無』を飲んでいた。


 十数分後、X1とD3が居る喫茶店にY1が入ってきた。彼女はスーツ姿のまま。外出の途中で寄って来たのだろうか。途中で抜けて来たとは……、X1は思わない。
「D6君、こういうことか。道理で……」
 D3がY1を『丙社被害者の会』会員としての名前で呼ぶ。
「はい。まさか、先にX1さんと接触するとは思いませんでしたが。頼めますか?」
「ああ。望むところだよ、D6君」
 Y1にも同意が取れてしまった。それも、こんなにもあっさりと。
「やはり、そうだったなX1君。君から『優先』で電話があった時から覚悟はしていたが……。これが、君達の運命なのかもしれないね」
 X1の脳裏に、別れ際のD3が残した言葉が気に掛かる。そんな運命は御免だという気持ちで一杯だったが、現在の状況では、彼は相当に頼りになる人物だ。
「でも、気が晴れるどころか……、何か疲れた」
 相談の結果、不安が別の不安に取り換えられた印象を持ったX1は、自分の先行きを心配するのだった。

 
 X1とY1は、喫茶店から家へ帰る。結局Y1は途中で抜けてきたんだそうだ。
 X1は融通の利く職場だな、と思うことにする。
「D3さんも『知ってる人』、だったんですね」
 今でもX1自身腑に落ちてはいないが、ここまで話をして、さらに助言を受けてしまったからには、飲み込むしかない。
「そうですね。彼はメンバー内でも、丙社の『バイアス』に詳しい。私の知らない方面の知恵を持っている可能性があったんです」
「知恵?」
「Z4を無力感する為のです。それでも、あくまで備えとしてですがね」
「そうですね。彼女が何もしてこない限り、こちらからも何もしない。彼女が何もしてこないとは思わないけど。この前提が守られる内は、Z4さんも、大事な甲物件の住人ですから」
 そう言いつつも、そんな彼の持論をY1はどう思うだろうか、とX1は彼女を見やる。そんな日々の平準的な姿勢を保つことを、彼女は愚かだと内心でそしるのだろうか。
 或いは、そんな態度をこそ、彼女はX1に望むのだろうか。日常に徹しろと。その言葉通りにしていれば問題が解決するのなら、それはどんなに気楽な事か。
 X1には、そうは思えない。思えないが、どうしようもない。今は、まだ。
 だが現状、急激な妨害が発生しているわけではないのも確かだった。『分際提示の審判者』や『亡失の7観』と呼ばれるZ4は、こうして一週間経っても目立った動きを見せない。
 攻撃のチャンスで言えば、D3の話を合わせると対象ターゲツトの無防備な就寝状態を、これまで七回も見過ごしている計算だ。
 今日だって朝から呑気に引っ越し作業をしていて、「X1様ー!」なんて笑顔で玄関扉から声を掛けられ手まで振られてしまった。
 これが、精神操作で支配してこようとする人間の振る舞いだろうか? 確信が持てない。
「しかし、Z4さんは一人でこれからどう暮らすんでしょうか?」
 X1は心配そうに言った。
「Z1がサポートをしてると思いますよ。何でもかんでもとは、行かないでしょうが……」
「でも、Y1さんもビックリしてたでしょう。彼女今週、二回もウチに夕飯を食べに来てますよ。これ、多分本当に生活できないタイプの人じゃないんですか?」
 X1は、二回とも夕食を終えてすぐ「お休みー」と微笑んで欠伸をしながら帰るZ4を思い出す。彼女は仕草だけでなく寝る時間まで、子供っぽいのだろうか。
「かも、知れません。私も少し、『亡失の7観』の厄介さを見誤っていましたね……」
「あの……厄介って、そういうこと……?」

 

「これも。これも。あっ、危険って書いてある。これは……やめとこ、爆発するかも。あと、お皿、お皿」

 X1とY1が甲物件へ帰って来た時、Z4の姿はゴミ捨て場にあった。
 彼女はごみ袋を持っていて、今まさにごみ捨てでもしようかという風体だが。その手は、確かにゴミを捨てるのではなく拾っていた。
「あれ、Z4さん? 何を」X1は驚いて声をかける。
「えっ、X1様? あの、これは……」
 Z4は慌ててゴミ袋を閉じようとしたが、既に手遅れだった。彼女の荷物からは、他人が捨てたものだったらしい皿やスプーンフォーク類が零れていた。
 おそらく、近所の住人が先走って出した不燃ごみだろう。
「Z4、何をしてるんですか。これ、他人のゴミを……。はあ……予想外です」
 いかなY1でも、この事態までは考えていなかったようだ。
「あの、あたし、生活用品がなくて……。その、これならタダだしすぐ手に入るかなって」
 Z4はそれがテクニカルで効率的な家財の入手方法であるかのように語るが、その声音には余裕はない。どこか、後ろめたいことをしている実感があるのか。
「ゴミから拾った食器を使おうだなんて、凄いこと考えますね。『バイアス』ってこんななのかな?」
 ふと思うことを隣のY1に訊くX1。だが。
「いえ、ここまでする人は普通に稀です」
 と平坦な声で返される。彼はその返答に心底安心し、Z4には通常のモラルの話をする。
「Z4さん。それは、最後の手段にしようね。本当にほかの方法が無かった時、初めてゴミ漁りを選択肢に挙げよう。単純に、不潔だし……」
「で、でも……。買い物の仕方、わかんなくて」
「Z1には?」「恥ずかしくて、聞けないよ……」
 顔を紅潮させて俯くZ4は、目に涙を溜めながら訴える。彼女が本気で困っているようにも見え、X1は同情しそうになる感情をなんとか振り切る。
「では、これからは周りに質問してください。Z1は貴女の仲間なんでしょうし、俺達も……まあ……答えますから」
 隣のY1に目線をやると、彼女も同意するように仕方なしと頷く。
「それに、一応ゴミを自分のものにするのって場合によっては犯罪なんですよね。窃盗に当たる」
「え? そうなんだ。そこまで、だったんだね。ごめんなさい。あたし、これ、返すから」
 ゴミ袋をを抱えていたZ4は、しゃがみ込んでから中身をゴミ捨て場に丁寧に返す。
「Z4、私と一緒に買い物をしましょう。金はあるんでしょ? これは強制ですからね」
 拾ったゴミを元に戻し終わったZ4の腕が、Y1に抱えられる。
「ああ……、『Y1』、手首掴まないでぇ……。言うとおりにするからぁ……」
 情けない『バイアス』の精鋭の声に、X1の緊張感は著しく削がれたのだった。

 しかし、その後も色々あった。
 彼女はゴミ捨ての回収日を把握していなかったのか、思い思いの曜日と時間に様々なゴミが混在したゴミ袋が捨てられていたりしたので、ゴミ捨ての案内ガイドをしたり。
 宅配物が家に入りきらないのか、玄関脇に段ボール箱が置いてあることもしばしば。まだ他の住人が苦情を出すには至らないが、明らかに共有部分である通路は窮屈そうだ。
 これも、Z4と会う機会がある都度片付けの手伝いをする。勿論Z4に親切にするためではない。他の居住者がせめてもの日常を送るためだ。
 直接契約の強みとして来月から管理費を三倍にすると彼女に伝えると、彼女は「うん!」と満面の笑みだ。
 本当に金に無頓着なのか、それ程X1との時間を共有できるのが嬉しいのかは、考えないことにしてX1は作業が終わり次第そそくさと帰る。
 そして一番問題だったのは。Z4という若い女性の部屋に通う所を見られ、近所で二股男と噂され始めたこと……、ではなく。
 ガーデニングと称して、Z4が観葉植物を駐輪スペースで栽培し始めたこと……でもなく。
 初めての料理と称して、どこで手に入れたのか不明な金属網を使いベランダで大量の煙を出しながら魚を焼き始めたこと、でもない。
 問題は、Y1が日毎に疲弊していっていることだった。彼女はX1とZ4が話している所を見る度に表情が曇り、何か苦しそうに見えた。
 原因は幾つか心当たりがあるが、結局はZ4の存在が起点だ。Z4またはZ1が任務とやらを諦めるか、Y1が現在の生活に辟易してX1を振る決心をするまで、この問題に終わりはない。
「しかし、『バイアス』の精鋭がこんなにもズボラ人間だとは……」
 今日も朝食を食べていったZ4を玄関で見送ったX1は、同席していたY1に話しかける。
「……この性質のせいで、この女は正体を疑われたことがないんですよ。その点でいえば、正に最強格ですね」
 手をわなわなとさせながら、彼女は答えた。
「そんなもんなんですね……『バイアス』って」
 元々Z4がいた環境が悪かったのではないか、とX1は疑う。だがY1は心外だとでも言いたげに下三白眼で、ぼやく。
「違いますよ?」「エッ?」「この女だけです」「はあ……」
 なら、いいか。とも言えず、X1はY1に「……そうですか」と返すしかない。
「この女の天然さが、潜入に丁度よかっただけです。他は大体、正体が疑わしいほどの『混沌』か、正体が疑わしいほど『清冽』かの二択ですから」
「つまり、Z4が一番まとも……?」「違います。『天然』です」
「拘りますね」
「『バイアス』についての重要な情報です。覚えておいてください」
「はい」
 こんな日々が続くのなら、丙社との裁判を控えた日々の方が余程肩の荷が軽かったと思うX1だった。

 さらに一週間後。Y1に加えてX1もへとへとに疲れ切っていた。
 理由は、結局Z4と言って差し支えない。そうD3の全面協力による、睡眠時の精神操作を得意とする『亡失の7観』対策のためだ。
 大変とはいえ、Z4の能力を考えれば就寝時間と起床時間に訓練する流れは致し方無し。頻度は多くないとはいえレクチャーしてくれるD3の手前文句は言えない。
 結局、寝不足になってしまうX1だった。
 しかも、ここまでしても備えに過ぎず。さらには確実性が保証されている訳でもないとくれば、疲労感も増すばかり。否、徒労感と表現すべきか。
 幸いにも、訓練の甲斐ありX1に素質が有った為か途中からX1の自信も増してくる。それでも、この対策の効果を確かめる機会など、無いに越したことはないのだが――。

「『Y1』、最近辛そう……。あたし、心配だよ?」
 多少は改善したものの回収日が一日ズレた満杯の燃えるゴミを運んでいるZ4に、Y1は話しかけられる。
「大きなお世話です。こう、……貴女をどう肉塊にしてやろうか考えていると元気が出るのでご心配なく」
 Y1は「こう……!」と言いながら、おにぎりを握るジェスチャーでZ4団子を握って見せる。
「酷いよ、『Y1』。でも今夜よかったら、あたしの治療受けて欲しいな。無駄かもだけど、もしかしたらちゃんと元気出るかも……。今晩おじゃましていい?」
「弁えなさい似非エスパー。貴女の治療とやらに効果がないのは了解してます。結構ですよ。あと、そのゴミ一日遅れです」
「あ……。えへへ……。ごめんなさい。うっかり、しました」
 Z4は両手のゴミ袋に目をやり、悲しそうに笑う。
「では……」と、Y1がその場を去ろうとするが、Z4が「えっと……今晩……」と言うのでY1は振り返った。
「……ああ、これも言っておきます。『X1さんに直接手を出す気なら、覚悟してくださいね? 今度こそ命に関わると思え。私は貴女が相手でも容赦なくやる』。私が言いたいのは、それだけです」
 言い放ってY1はZ4の反応を確認するが、彼女は寂しそうにしながらも笑顔を絶やさない。
「『Y1』……、わかった。覚悟するね? だから、良い?」
「……だから結構です」
 それだけ吐き捨てて、Y1はその場を離れる。遠くから聞こえるZ4の声にも、聞く耳を持たずに。
「ねえ……! 一回だけでいいから!! 一回だけ! 心配なの! 時間を頂戴! 今夜、行くからね!! これから、準備も出来てるんだから!」
 秋風が、冬の寒さを帯びてくる。もう、Z4に笑顔はない。残るのは、ただ純粋な寂寞の思いのみ。
「『Y1』、きっと心の傷のせいなんだよね……? あたしが、助けて見せるから」
 彼女の呟く声は、風で消えていった。



「Z4が来るかもしれません」
「どこに?」「私の部屋に来ると言っていました」
「俺じゃなくて、Y1さんに?」「ええ、私に仕掛けてくるような口ぶりでした」
 休日の昼。X1が住む四階部屋では、急いで入ってきたY1の一声からそんな会話が始まった。急激な事態の変化に対応するため、二人はすぐに対策会議を始める。
 最初に状況を纏めるのは、Y1。Z4側の動きを彼女は予測する。それは必要な対策を導き出す、第一工程。
「可能性は色々ありますが。主に、私に何らかの干渉をしてくるか。或いは私が三階の自室に居ると確認した後に、四階のX1さんに対して攻撃をしてくるか。危険なのは、その二択」
「あの……基本的なことで申し訳ないんですが、玄関扉の鍵を厳重なものに換えたりするのは……?」
「窓を破壊されるだけですよ。するだけ無駄です。三度目の正直にはなりませんよ」
 そう言われてみればその通りで。彼女はいつの間にか外から室内に入ってくることが一度あった。X1が初めてZ4を紹介された日がまさにそうだったのだ。
 あの時、もし窓に鍵を掛けていたらZ4に窓を破られる可能性があったのか? しかしY1の話とX1の経験から考えれば重要な点はそこではなく。
 Z4にとって、このX1の住む四階の窓に隣接するベランダに立ち入る行為は、全く困難が伴う作業ではないと見るべきだという確信だった。
 この最低限の確認が済んだところで、X1は一つ無難な案を進言してみる。
「どこかで寝られればいいのなら、一晩ホテルを取るとか?」
 一時的な策だが、確実に今夜を乗り越えるならこれは議論に値する手段だった。
「これまで動かなかったZ4が急に動いた。これは何かの準備が整ったか、Z1の指令によるものだと考えられます。ならば、今晩を凌げば終わりではない。想定する条件が揃わなければZ4は次の機会を待つだけです。そうしたら、先に疲弊し潰れるのはこちら。不利です」
 それはY1の言う通りだとX1も同意する所だ。これまでも、緊張感の中Y1を過ごさせてしまった自覚がX1にはある。彼女自身が『潰れる』とまで口にした。この意味を、X1は考える。

「尚早ですがX1さんには、これをZ4との決戦と捉えて頂きます」
 緊迫した状況に、X1の脈拍が早くなる。
「準備だって出来てないのに……。何とか実力行使は避けられませんか……?」
「やる気になったZ4に対しては『話をする』という行為自体が危険です。自ら彼女の術中に嵌る必要はありません」
「では……、どうしますか? 会話を避けるなら、説得も誘導も出来ない。まさか……」
 本当に、『書式の42観』の時のように戦うしかないのか? とX1は身震いする。
「大丈夫です。彼女は『書式の42観』と違い、相手を眠らせる以外に物理的な攻撃をしません。取り敢えず、怪我の心配は不要です。それにどうせ、あの女がX1さんに何かするなら手段は色仕掛けに決まっています。そのための精神訓練を今までしてきたんですよね? X1さん」
 X1は、就寝時間と起床時間にこの一週間繰り返した訓練を思い出す。
「まあ、そういう意味もあるかも知れませんが……」
「そうです。なので作戦はこうします。――D3に予定通り来て貰った上で、私が素直に自室で待ち。X1さんは四階のこの部屋で、D3と守りを固めてください」
 確かにそれならX1の安全は守られるかもしれない、しかし。
「それじゃあ、Y1さんが一人で戦うことになる……! それよりD3さんと一緒に迎え討って下さい。今回のZ4さんの狙いは俺じゃないんでしょう? 四階ここに一人でも大丈夫です。この二週間、俺が一人で部屋にいる時間なんて幾らでもあったんだ」
 Y1に無理をさせられない。無理をさせたくない。その一心で、考えられるだけの提案をする。されどやはり、その提案は論理的に却下された。
「二週の間とは状況が既に異なっている可能性があります。急にX1さん狙いで動いても、不思議はない……。三階だろうと四階だろうと、X1さんを一人には出来ません」
 互いに譲れない部分が、両立しない。二人で有利にZ4に対処し、かつ同時に安全を確保する方法が無いだろうか?
「なら、三人で三階で待ち伏せしましょうよ。それなら一番勝機がある」
 素直で簡潔な総力戦。Z4が三階にあるY1の部屋を訪れるなら、この方法が確実だ。
「四階を空にしたら、もし三階に彼女が来なかった場合、逆にZ4が本当に四階に来るつもりだったかどうかが分からない。敵の狙いが不明のままとなります。繰り返しになりますが、私はここを決戦とするべきだと思います。彼女の企みがどちらであろうと対応できなくては」
 Y1としては、何としてでも今回で終わりにしたいと考えているらしい。一時的なやり過ごし、時間稼ぎはZ4やZ1の採り得る手段の過激化を招きかねない。そんな話をX1は以前Y1としたことを思い出した。
 その上、自分達に迫る体力的、精神的消耗も看過できない。やはりここで一度本当にZ4の行動を完封し、彼女に作戦の失敗を認めさせるべきなのだ。
 だから、X1は残った人員配置の可能性を提示した。
「では、Y1さんの部屋でD3さんに隠れてもらって、俺も三階のY1さんの部屋に行きます。Y1さんは四階の俺の部屋で寝たふりをしていて下さい」
「……?」Y1は目を見開いている。
「もしZ4さんが、本人の宣言通り三階に来たら、俺とD3さんで応対します。そしたら標的のY1さんも居ないので、彼女は作戦の失敗を悟るでしょう。D3さんも居るから、無力な俺が孤立する致命的な状況は避けられる。次に、四階にZ4さんが来たら……」
「私が気付く。X1さん狙いなのですから、私も比較的油断が誘いやすい。普通に三階で接触する状況よりこちらが有利。理屈は、通ります」

 部屋を交換していれば、Z4の予定は狂う。X1らは、それに賭けることにする。二人にとって、分の悪い勝負では無い筈だった。

「はい。Z4、……『亡失の7観』が攻撃を仕掛けて来るのなら、寝静まった深夜と相場が決まっています。私が同席出来るなら貴方の無事は保証します。X1さん、その作戦で行きましょう」
 D3は簡潔に今回の作戦に乗ってくれる。X1の訓練の進捗が半ばであることも承知の上で、彼はその意気込みに水を差さぬよう言葉を選んでくれているのだ。
「では、お願いします。頼りにしていますよ、D3さん」
「すぐにそちらへ向かいます。一時間後には到着できるでしょう」
 電話が切れ、頼もしい老紳士の声が聞こえなくなる。彼は思う。対策はこれで十全なのか? 不安だが、X1は計画通りに動くしかない。それが仲間の動きを邪魔しない、ベストな対応なのだから。

 その後、二人は夕食を摂るため料理をする。作戦に向けて英気を養う為、欲望に抗わず。かと言って調理時間の掛からぬ料理を選択する。それは、二人別々に。
 それぞれ別に自分が食べたいものを調理し、余ったら分け与えるのが、X1とY1の基本スタンスだった。
 互いに好みのものを食べられるし、相手の好みも知れる良いやり方だとX1は自負している。
 そして時折、相手の分まで食べさせたい料理を作ってみるのも一興だ。しかし、その辺りの拘りは何時もY1の独擅場であり、X1が御馳走になる事が専らなのだが。
 それも、やはり楽しみである。
 時には、各部屋で別々に調理して持ち寄ったり。時には同じキッチンで窮屈な思いをしながら同時に料理をしてみたり。
 そんな感じなので、互いに分けても食べきれない量が出来上がってしまうことも屡々。勿論余った料理は、冷蔵庫の中で翌日の食事に回される。
 それでも、最近はY1に分けるのを前提での分量のコツを覚えて来たのだが。最近は事情が変わり、上手く行かないものだと、X1は独り言つ。
 今日はX1の部屋で二人同時調理だ。しかし、寒いので鍋にしようというY1の要望もあり、X1が買っていたニンニクスタミナ丼用の豚肉は敢え無く彼女の鍋に合流する。
 それから鍋に豆腐を投入し始めていたY1が、葱を忘れたので下から取って来ます。と言って鍋の火を止め、四階のX1の部屋を後にしたのが十秒前。
 葱なら自分が買った分を使って貰う位出来たな……、と冷蔵庫にある野菜庫の中身を思い出したX1の耳に。

「お腹すいたなぁ。ご飯ある? あ、いい匂い」
 突如として、その声は届いた。
「――……え?」X1は戦慄する。
 さも当たり前のように。『異常』のように。その人物は、平然として。日常が如く。何度も繰り返した、慣れ親しんだ行いとして。――そこに現れた。
 暢気な声と共に空腹の『亡失の7観』が、鍋から沸き立つ出汁の良い香りを鼻腔から吸引しつつ。Y1不在の今、無防備な時間を縫うようにX1の部屋への侵入を見事果たしたのだ。
「あああああ!! ヤバい、やばああ!!」
 正に『異常』事態。想定外の計算外。当然の如く、『天然』な行動から繰り出される合理的な『理不尽』に晒されたX1の目が、視界が、回り続ける。
 そう、これが『亡失の7観』――、Z4の能力。『常識の敵』である一桁ナンバーの、本領なのか。
 今は急いでY1と合流するか、彼女をここで待たなくてはならない。逃げ出すには、玄関に行かなくてはならない。なら……。
「か……隠れ……アッ!!」
「あッ、ご飯……まだ、みたい? 『Y1』も来てないみたいだし……。X1様は、暇?」
 あっさりとZ4に見つかり、X1は咄嗟に『忙しい』と嘘を付くべきか悩む。しかし、今は嘘を見破れるかもしれない彼女を刺激するわけにはいかなかった。
「……い、一応、暇……です」
 そう答えると、Z4は考えるようにしてX1を覗き込む。
「うーん、そうだなー。この後は『Y1あのこ』の治療の予定なんだけど、X1様も何か辛そう。こっちにも治療が必要だったんだね……。今暇なら、今やろっか! ほら、そこに座って?」
 Z4がずかずかとリビングのソファーにX1を追い詰め、両手で彼をそっと押して座らせる。今なら、Z4の不意を突ける。今なら、力尽くで彼女を押し退け、逃げ出すことも出来る。
 だが、Z4の『異常』な雰囲気と。彼女の無垢な慈愛の表情を見せられると、X1はそんな暴力的な抵抗をし損ねてしまう。それ程の包容力を、彼女は有毒な放出量で垂れ流している。
「『Y1あのこ』が来る前に、簡単に済ませちゃお? 予定に無いけど、先にしてあげる……」
「や、やめろ……」
 そう口にするのが、X1の限界。それ以上の行動がどうしても起こせない。そして。
「ごめんね、X1様。少し、『正常化』してみるだけだから……」
 この言葉が耳朶を流れると同時に、覆いかぶさってくるZ4の柔らかな温もりと妖しい香りの中。X1は恐怖と絶望と共に気が遠くなっていく。
「く……クソッ……」
 そして、X1は完全に気を失うのだった。

 次にX1が目を開いた時、彼は真っ暗な空間に居た。室内なのか屋外なのか判別の付かない、黒一色の空間。
 X1は何処かで味わったのと同じ『ゾクリとする感覚』を味わいながら、それでも意を決し一歩前へ踏み出す。
 暗闇に目が慣れてくる。そして、目に映る。
 それは脆弱で、不完全な、人型の幻影。未完成な二人分の白い影。
 そして、もう一人分新たに現れた。同じ様な白い影。しかし、X1には一人一人が誰なのか区別がつかない。
 だが、その中の一人は確実に分かる。それが、誰か。だから、彼は暗闇の中叫んだ。
「Y1さん!」
 白い影だった彼女が振り向く。その姿は、X1のよく知っているY1のモノ。彼の恋人。そして、始まりの、最たる『異常』。
 しかし、その口元が悪意に歪む。彼女の表情は、『Y1』らしくない不快な営業スマイルだ。
「ええ。私ですよX1さん。お久しぶりですね」
「え……?!」
 彼女は不自然なことをいう。否、『彼』は当然の事を言う。その声音に感じるのは、憧憬と嫌悪。
「何を、言っているんですか……? Y1さん。俺たちは……」
「困りましたね……」
 すると、『Y1』の営業スマイルがさらに歪み、苦痛を孕んでいく。
「困ります。貴方も、困りましたよね、X1さん。お金が無くて、困ってますよね。そうだと思っていましたよ。それで……、私、見つけて来たんです。とっておきの……」
 X1は、その先の『彼』の台詞を知っている。とても、厭な、嫌いな。
「臓器販売ルートがあるんですが、紹介しま消化? X1さんが臓器を売ってくれないと、私、とっても困るんです」
「嘘だ……」
「お願いします。貴方だけが頼りなんです。X1さん? よろしくお願いしますね。私の愛する人……」
「……や、やめてくれ……。Y1さん? 何で……」
 Y1は顔を、表情を転々としながら絶えずX1を死に誘う。
「チュッッチュッ!(投げキッス)X1さんは、私を愛してくれてるんでしょう? なら、私を助けて。助けると思って、貴方の体内ナカに詰まってる新鮮な内臓モツを頂戴?」
「嘘だ!! こんなの、Y1さんじゃない!!」
「……そうかな」
 絶叫にも似た声を吐き出すX1に、疑問を投げかける声が一つ。こちらも、白い影。その形は次第にZ4――『亡失の7観』の姿を取る。
「そうです。こんなの、貴女の嘘でしょ? そうに決まってる。そうに決まってるんだ」
「かもね。でも、これは間違いなくX1様の記憶から出来うまれた印象だよ? 自分で、分からない? いいえ。分かってるはずだよ。これが、X1様の知ってる本物の『Y1あのこ』だって」
 否定しなければならない。しかし、記憶が、心証が、本質が、彼に単純な否定を許さない。
「嘘だ嘘だ嘘だ。有り得ない有り得ない嘘だ嘘だ」
 これがある意味で真実であると、理解しているが故に。
「うん。やっぱりそうなんだね。本当に思った通りだ。このまま付き合ってたって、お互いのためにならないよ。『Y1あのこ』にとっても……、X1様にとってもね」
「嫌だ嫌だ、帰せ帰せ返せ返せ! 俺のY1さんを返せ!!」
「だから、はっきり言ってあげるよX1様……。『Y1あのこ』はね、本当はX1様のことが世界で一番大嫌いなんだよ? だから、『Y1あのこ』と別れて、あたしと一緒になろう?」
「やめろおおおお!!! やめてくれえええええ!!!!!!」
 そして目が覚めた。――直後にX1が見た光景は。包丁を振り回すY1が、怪我をして這いずりながら逃げ回るZ4に、まさに今、切りかかろうとしているところだった。

「死ねええええ!! 死ね!! このッ! クソ売女!! X1さんに何を言った! X1さんに何を教えた! 答えろ!! そして死ね!! ここでくたばれ!!」
 Y1はZ4の腹部を洋服の上から切りつけ、その上彼女を蹴り飛ばす。
「うげぇェ! ごめんなさい、許して!! 許してええぇぇぇ!!」
 Z4のほうも金切り声に近い声音で、繰り返しY1に許しを乞うている。
 そしてその光景を、目覚めたばかりのX1はまざまざと見せつけられる。
「死んで消えろ、Z4。しかし楽に逝かせるほど私は優しくないぞ!」
 次はY1がZ4の腕を浅く切り、鮮血が飛び散らせる。その血飛沫はX1の顔にも少しかかって、涙の様に滴っていく。
「Y1さん」
 X1がそう呼ぶと、Y1の動きがピタリと止まる。
「?! X1、さん。大丈夫……ですか」
 Y1は包丁をX1から隠すように隠しながら、小声でX1に言う。
 しかし、X1は血塗れのZ4を見て、思わず驚きで震えてしまった。
「それが、それが貴女の本性なんですか? Y1さん……。貴女にとっては、人を殺めるのも、簡単ですか?」
 顔面を蒼白にしたX1がY1に問う。彼の目には、怯えの影が差していく。
「ち、違ッ……」
 Y1も、混乱したように目を泳がす。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい! ごめんなさい!!」
 Z4も必死に謝り続ける。それは最早謝罪というより自分の声で苦痛を和らげる為の絶叫。防衛反応のそれであった。
 そこに玄関扉の開く音と共に、D3が到着した。
 彼の眼前には、腰の抜けたX1。血の付いた包丁を手にしたY1。そして、切りつけられ、金切り声を上げるZ4が並ぶ、騒然とした光景が広がっていた。
「これは……まずい。すぐ処置しましょう。D6! X1君! この部屋に、救急箱は?!」
 Y1とX1はD3から返答を求められるが、先に呼ばれたY1は虚ろな目をしていた。
「あ……ああ……、違……、これ、X1、さん……、違……、」
 Y1は震えながら立ったまま、同じ言葉を吐き続けている。だが、その混乱がX1の気付けになった。
「D3さん、ここにあります。ちょうど、この前使ったのが余ってて」
 X1はガーゼと包帯が入った箱をD3に渡し、自分はお湯とタオルを洗面所から運んでくる。
「充分です。ああ、良かった。然程の出血もありませんね。腹部と左腕に浅く二回。X1さん、安心してください。貴方の彼女は、ちゃんと自制していた。それは、『亡失の7観』。貴女も分かりますね?」
 X1はD3の処置を眺めつつ、彼の言葉を拠り所に安心しようとする。そして、床に転がり、悲しみと痛みに涙を流しているZ4も、小さく頷くのが見えた。
「うん……『Y1あのこ』、我慢してくれた。あたしが逃げ出すのを待っててくれた。でも、腰が抜けちゃって、立てなかった。ごめんなさい、ごめんなさい」
 Z4はY1に謝りつつ、懺悔の言葉を吐き続ける。しかし、彼女をこの部屋でY1と一緒にしておくわけにはいかない。
 X1とD3は未だ包丁を掴んで離さないY1を一時の間、この部屋に留め。Z4を305号室へ戻すことに決めた。

 その後、D3とX1は多少の包帯を巻いたZ4を彼女の部屋に帰し、作った食事を与える。それを、X1は機械の様にこなす。
 何も考えないよう、務めながら。今は、怖くてY1の顔を見る勇気がない。もしかしたら、Z4に見せられたあの悪意で染まった、歪んだ笑顔を彼女が浮かべているかもしれないから。

 D3はY1の様子を見てくると言って、三十分は経ったか。X1に一緒に来るかと聞いてくれたが、X1が時間をくださいと返すと、D3はX1とZ4を二人にして置いていっていったのだった。
 それは、これまでのことを考えれば正気を疑うような対応だったが、今のX1は、不思議とZ4に恐怖を覚えない。
 信頼していたY1の凶行を見てしまったからだろうか。それとも、これこそが、Z4の能力なのか。もう、X1はどちらでもよかった。
「X1様。あの、ごめんなさい。こんなつもりじゃなかった。あの、あたし、ここを追い出されるんだよね……」
「……」
 X1は答えない。頭が働かない。色んなことがどうでもよくなった。でも、どうでもよくないこともあった。
「Z4、さん。聞かせて下さい。あの、包丁を振り回していたY1さんが、彼女の本性、なんですか? それを、俺に貴女は伝えようと、したんですか?」
「……」
 今度はZ4が押し黙る番だ。数秒考えて、そして彼女はゆっくりと口を開く。
「違うよ。あれは『あの子』の本性なんかじゃない。『Y1』は、もっと優しい子だよ……」
「そう、ですか。なら良かった。本当に、良かった。俺、その言葉を信じられる気がします」
「だって、本当のことだからね」
 二人は笑い合う。そして、自分達が笑い合っている不自然さに、さらに笑ってしまう。
「Z4さん」「何? X1様」
「ここを出ていく必要なんかない。俺は、俺の記憶と俺の印象を見せられただけ。何も変えられてなんかない。でしょう?」
「うん……」
「なら、Z4さんは誰にも危害を与えてなんていない。契約は破られていないし、俺も追い出したいなんて思わない」
「X1様……」
「でも、Y1さんが何て言うか分からない」「もしかしたら、今度はお腹破られちゃうかもね……」
「冗談きついです」「だから、あたし、『Y1あのこ』に謝りに行きたい」
「なら、あしたの朝来てください。Y1さんにそう伝えておきますので」「やった!」
 笑顔のZ4にそう約束したX1だったが、彼自身も今Y1に顔を合わせるのは気まずい。Y1の真意はともかく、X1は彼女の人格を疑ってしまったのだから。

 Z4の305号室を出て、X1は四階の自室へ向かう。今、Y1の傍にはD3が居てくれている筈だった。彼が見ていてくれることで少しでもY1が落ち着いていればいいとX1は思う。
 それでも。Y1とZ4、そしてX1三人の問題を解決までD3に頼ったり期待するのは筋違いだ。
「俺が、まず、Y1さんと話さないと……」
 そうして、彼は自室の玄関扉を開くのだった。
 部屋に入ると、しゃがみ込んでいるY1と。その隣に、彼女から包丁を回収したらしいD3の姿があった。
 D3は、「ここからは彼氏パートナーの本領ですね」と言いその場から離れる。
 X1は、静かに顔を上げたY1の前に膝をつく。顔を見せたY1の表情は、未だ少し震えていた。
「X1……さん。済みません、取り乱して」
「いえ、俺に油断があった。予期できる可能性だったし、避けられる問題だった。俺の愚かさが、貴女の心をあんなにも傷つけたんです」
「違う、違うんです。これは、私の怒り。私が御しきれない、私の問題」
「Y1さん……」
 冬の始まりを思わせる彼女の冷たい手を、X1は両手で握る。
「俺は、大丈夫です。確かに、俺はZ4に何かをされたかもしれません。でも、そのせいでY1さんに対する印象が変わることも、Z4さんへの印象が変わることもなかった。俺達が危惧していたようなことは、起こらなかった。それを、信じてください」
「分かって、います。Z4はエセです。だから、洗脳レベルの人格変化は彼女には起こせない。だから、私はZ4の色仕掛けだけを警戒していた」
「それなら大丈夫です、Y1さん。俺達の仲は、そんな一朝一夕に超えられるような関係性じゃない」
「でももし、X1さんの心が『亡失の7観あのおんな』に弄ばれていたらと思うと、耐えられなかった。許せなかった」
「だから、暴れたんですか」
「そうです。私は愚鈍にもX1さんの前で、自ら今の関係を崩壊の危険に晒す行動をとってしまった。私が、考え無しだった。間違っていたんです……」
「分かりました。明日の朝、Z4さんが顔を出すそうです。今日はD3さんも泊って行ってくれます。この時間を使って明日Z4さんに何と言うか、考えておきましょう」
「はい……」
 そして、時間が経ち、夜が明けて。

「許します」
 Y1はいつもと同じ調子で、Z4に向かいそう言った。
「え……、本当……?」「Y1、さん?」Z4の隣でX1も呆然とする。
「許します。許す、と言ったんです。よく考えればX1さんが貴女Z4なびく訳なかったんです。X1さんは男装の私にも興奮する異常性癖者なので。ただの天然に私が負ける訳が無い。何をX1さんに吹き込もうと、それはひっくり返らない」
 Z4もX1も開いた口が塞がらない。気になる文言も含まれていた気がするが、それどころではない。
「あの……Y1、さん?」「あれ、許してもらえちゃった……のかな?」
「ですが、条件があります」
「はい……」
「まず改めて。Z4、任務なので仕方ないですが、私達の仲を邪魔するなら、まず私を先に落としなさい。X1さんに手を出すのではなく。さもなくば次は身包み剥いで谷に捨てますよ」
「(『Y1』のエッチ!!)」「(『谷』??!! どこの??!!)」
 冗談には思えないその言葉に、Z4とX1の二人が心の中で叫ぶ。
「あとZ4、貴女にはもう食事を恵みません。自分で買うなり、調理するなりしてください」「えー」
「『えー』と言われても無駄です。諦めなさい。食事も、彼の心も」「……うー」
 しょげるZ4。「なら、食費も出すし……」「自堕落も極まれり、ですね」「だって、おいしいんだもん!」
 そんな純粋な目で食事の質を褒められると、X1もY1も悪い気はせずに頭を掻く。だが、これで絆されるY1ではない。
「次何か食いに来たら、その時こそ貴女を切り刻んで肉団子にして食べますからね。全く、折角私とX1さんのお鍋だったのに。貴女に食べられたの、最悪です」
「わかった! それでいいから、また食べに来て良い?」
「はあ……、こいつの頭って、こんなにダメでしたっけ……?」
 もう、疲れて諦めた様子のY1。X1の目にも、彼女にZ4に対する敵対の意思はもう残ってはいないように見えた。これで、一件落着だ。
「X1様も、ありがとね。あたし。今日の事、忘れたくないや……」
 別れ際に、ぽつりと呟くZ4。彼女の事情は分からない。でも、その表情に浮かぶY1への親愛と信頼は本物だと、X1には感じられたのだった。

 Z4を見送った後、彼女の後姿を眺めながらX1はY1に恐る恐る訊いてみる。
「なぜ、Z4を追い出すと言わなかったんですか?」
「それはX1さんの決めることだからです。それに、今筋道を破って『第六の正常かれら』に出てこられたら危なかったからです」
「危ない……。何がです?」
「私が」
 睨み付けるようなY1の視線の先にはZ1の家がある。彼女は、ここまでのことがあっても最初の取り決めの事を守るつもりらしい。
 あくまでも、Z4が甲物件を出ていくのは、Z4自身の契約違反で追い出される時。客観的に明らかなミスによってのみ、彼女はここを去ることになる。
 それは、Y1を怒らせた程度で発生する事態ではない。ただ、Z4はX1の家へ一方的にご馳走になろうと来ていただけ。
 それを家宅侵入罪と言うことも出来る。しかし、それは日常的に行われていたこと。家主にこれまで許容されていた事実があった。
 所詮これは単なる喧嘩。
 劇的なことがあったように見えて、何も起こっていない。今はまだ、ここは『平常』の内。

 後に、甲物件の大家が、自宅で二股の修羅場に遭ったと近所で噂されたのは別の話。