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A Gloomy Part-Time Lord "X1" of a Rental Apartment Building

或る兼業大家"X1"の憂鬱

エピソード6 承服

エピソード6 入居する審判者



 忘れていた朝食を摂る。忘れ過ぎていて実質昼食だが、そんなことが気にならないくらい問題がこの二日でさらに山積状態だ。
 X1がこれからのことを考え始めた時、またぞろY1が申し訳なさそうに話しかけてきた。
「X1さん、本当に申し訳ないです……」
 しかし、X1からすれば彼女がなぜ謝らなければならないのか疑問だった。Z4の話だとするなら彼女に過失などない。
「悪くない人の謝罪は嬉しくないですよ? Y1さん」
 そうX1が口にすると、再び部屋が食器の音で満たされる。一方、二人は言葉数も少なく食事を終えた。
「……取り敢えず、現在の状況を整理しませんか?」
 頷くY1。
「はい。それがいいです」
 対『亡失の7観』作戦会議開始だ。

「まず、何でZ4……さんは、ウチに住みたいなんて言い出したんでしょう。それにどんなメリットが?」
 想像が付かないX1は、困惑するしかない。秘匿同盟の異能部隊が普通の賃貸物件や自分のような一介の派遣社員に用があるという時点で意味不明なのだ。
 その上、具体的な手段が対象の管理する賃貸物件の一室を借り受ける事とは。殺し屋にもスパイにも似つかわしくないその手口に、X1にはZ4の狙いが見えない。
「それは……」Y1は顎に人差し指を当てながら考え込んだ。それから、ゆっくりと話し始めた。
「恐らく……ですが、陣を構える予定だから。ですかね」
「どういう意味です?」
「普通なら『住み込み』っていうのは潜入において、敵の警戒心の内側に入り込む手法を指します。戦争中なら敵の指揮系統の情報を得られる位に、成り上がる。とかですね。ですが、今回はこの例に当てはまりません」
「そうですよ。最初から敵だとバレているスパイなんて、聞いたことがないです」
「X1さんだけなら兎も角。私が居るのに甲物件ここを拠点にする理由がない。X1さんをターゲットにするなら、職場のM不動産に新人社員として紛れ込めばいい。それなら私に会わなくて済みます」
「うわ……ゾッとする話だ。って……前にY1さんがT社でやってませんでしたっけ」
「あれは違います。……で。話を戻しますが、つまりはZ4、並びにZ1の目的は、私達二人と同時に接触することにある。と、いうことです」
「そ……そんな。俺だけじゃなくて、Y1さんも、標的に?! い、いや……その方が自然なのか? そもそも……でも。……あ、それで、つまりどういう事です??」
 切羽詰まる余り、X1は結局どういうことか良く分からなくなってしまう。しかし、Y1は頬を染めて何だかもじもじし始める。何らかの事態に気づいたのだろうか。X1の分からなさは、さらに加速する。
「……Y1さん。気が付いたなら、説明してください。仮説でも、何でも、良いので」
 困ったX1がY1に問いかけると、Y1は気まずそうな表情でゆっくりと口を開いた。
「あの、X1さん。これは仮定の話ですけど」
「はい」
「もしかしたら……私からX1さんを『寝取る』のが目的である、という可能性があります」
「……へ?」
 今度は、X1が赤面する番だった。そして数秒後。X1は、自分がY1にちゃんと恋愛対象として見られていたのだと理解したのだった。Y1もX1の赤面に気づいたのか、さらに慌て始める。
「す……すいません! すみません! 仮定の話ですので……!!」
「い、いえ。違うんです! そうじゃなくってですね!? いや、そういう意味、というか、Y1さんからそんな言葉が飛び出すと思わなくって……」
「で、でも、こう考えるのが合理的なんです……! さっきの抱擁といい、馴れ馴れしさといい、単純接触効果狙いとしか思えません……!」
 しかし、疑問も残る。
「でも、あれ? それなら俺だけに接触すれば、問題ないのでは……?」
「……もしそうだったら、バレないように浮気しましたか? 彼女と」
「ヒエッ……!?」
 X1の脳裏に、浮気が発覚した際に彼女がどんな反応をするか様々なパターンが思い浮かび、彼は思わず身震いした。
「冗談です。……ですが、Z4の狙いはもっと大胆だったということです」
「……どういうことですか」
「浮気を隠す浮気男と、彼女の目の前で浮気する浮気男の違い。X1さんには、この浮気性の差が分かりますか?」
「え……。な、なんでしょう。自信の差、ですか? 許してもらえる気でいる、とか。もしくは、そういう性癖の変態とか……」
 X1はイチ台詞に、こんなに『浮気』という言葉が入るものか、と思いながらも思いつく限りを答えてみる。
 Y1は、X1の口から出てくる発想に一旦引いた後、一呼吸おいて冷静になった。
「まあ、可能性はありますが。一番は、彼女への嫌がらせかどうかです」
「へ……」
「別れてくれない、重い彼女への嫌がらせ行為。目の前で他の女とイチャつく。一番傷付くやつです」
 次は、Y1の知見にX1がドン引きする番だった。
「ですから、Z4やZ1は私達の仲を引き裂きたいのです。私達の関係は一目瞭然。Z4は、その……女性としての魅力でX1さんを篭絡。私の心をボロボロにして、離別を決意させる気なんです!!」
 何ということなのか。そこまで考えて……考えて、いるのか? Z4という女性は。
「彼女は……、それをしてくると?」
「きっと。Z4の精神干渉技術には実績があります。本人の言うように本物のエスパーかどうかは疑いの余地がありますが、腕は確かです」
 今度はそんな敵を相手にしなくてはならないのか? X1の心臓の鼓動が早くなる。
「X1さん?! ど、どどうしたんですか!?」
 Y1が驚いて、彼の手を握り返してくる。――どうやら、無意識にX1はY1の手を握ってしまっていたらしい。しかし、それどころではない。
「……ど、どうしましょう、Y1さん。もし、本当なら、ヤバ過ぎる。なんて残酷な手段なんだ。人の精神を壊すエキスパートの所業! 悪魔だ。淫魔か何かですか、あのZ4という人は……」
「だ、大丈夫です。今、心構えが出来れば。……そして、心構えをして頂けたなら、もう一つお伝えしなければならないことがあります」
「……まさか」
「はい、X1さん。恐らくこの後、彼女の入居を認めるしかなくなるでしょう」

「ええッ……それは、避けられないんですか?」
 Y1はX1の手を強く握り返す。
「Z4のバックにZ1がいるなら、保証会社だろうと連帯保証人だろうと必ず即座に用意してきます。つまり、常識的な理由での入居拒否は難しくなる」
「でも、大家には入居者を選ぶ権利があります。そんな危険人物サキユバスを住まわせて、自ら問題を引き込むことをする必要はない……」
「X1さん。それでも、理解してください。この場を断って切り抜けても、向こうはさらに過激な方法に切り替えるだけです。逆に今は、こちらでZ4の居住場所を指定できる優位な条件なんです。さらに賃貸借契約で縛れば、契約不履行を理由に合理的手段で退去させられる可能性すら有ります」
「それは、確かにそうだ」
 X1も、その意見には同意だった。
「ですから、一旦Z1とZ4による前提の組立自体は邪魔せず、あくまで任務失敗の原因はZ4の実力不足だった、とZ4自身にZ1に報告してもらう必要があるんです」
「それで、Z1が俺たちに対する嫌がらせを諦めるんですか?」
「少なくとも、強引な方法は採らせずに済みます。今は取れる対抗手段は多くありません。大事にせず、Z4を一時的に自由に泳がせて様子を見ましょう」
「はい……」
「後、」「……?」
 真剣だった彼女の顔に、ゆっくりと、影が差す。X1も、つられて不安を覚えてしまう。
「X1さんがZ4に寝取……心を奪われたりしたら、私、私は……」
 Y1の不安げな声に、息が詰まりそうだ。しかし、不安は彼も同じ。
「だから、約束してください。X1さん……」
「分かりました。もし、俺が精神干渉を受けて自分が分からなくなってしまったら、Y1さん。……いっそ、俺の意思を無視して……!」
 それが、今のX1の精一杯だった。――のだが、Y1は悲しそうに目線を下げるばかりだ。
「……自信が、無いんですね。X1、さん。彼女に心奪われないという、明瞭な確信が。それは、もしかしたら私の、私が、恋人として未熟だから、ですか? 私より、彼女が、魅力的だから、ですか?」
 言葉を詰まらせつつ、苦心を口にする彼女の声が痛ましい。何か言わなければ、とX1も思うが――彼の口から出て来たのは、これだけ。
「そういうことじゃ、ないんです。決してそういう意味じゃない。ただ、俺、弱いから。俺こそ未熟だから、Z4のちからに負けちゃうんじゃ、ないかって……」
「だから、約束できない、ですか?」「俺は本当に、精神力とか、そういうの強くないんです……だから、こういう約束しかできない」
「……何ですか」
「俺が、彼女にやられたら。俺の幸せは、人生は、そこまででいい」「X1さん。貴方も、また、そういうことを」
「だから、全力で立ち向かいます。これが、俺の約束出来る、全てです」
 そこから二人は沈黙した。無言の中で、ただ手を触れ合って、お互いを感じられる場所を確保していた。


「言いたい放題されたな、『亡失の7観』。一体彼らにどんな印象を持たせたのか、聞きたいところなんだが」
 隣家で盗聴しているZ1は、横にいる人物を横目に呟いた。
「うー。悪魔だとか淫魔だとか、謂れのない中傷だあ……」
 そう言うのは、先程致し方なく甲物件からの戦略的撤退を選択したZ4だ。X1にさえ話を通せば簡単に入居出来ると踏んでいた彼女は、早々にZ1の後援を求めざるを得なかった。
「施設育ちで仕方が無いとは言え、一人で部屋も借りられないとは……、私も想定しておくべきだったな。自信満々に『介入は要らない』とか言うものだから、私も勘違いをしていた」
「うっ……こっちはこっちで酷いし……」
 Z4は頭を掻いて唸る。
「しかし偽装とはいえ、丙社で三年は社員の肩書を付けておいてこれとはな。まあ取りあえず、配下の保証会社を付けて審査を一時間で通させておく。次は自信がないなら躊躇せずに、連絡をしろ。何のための『私達』だと思ってる?」
 Z1はため息をつくが、それは落胆ではなく納得によるものだった。
「うー。了解」
「それで、どうだ? あの二人、引き裂けそうか?」
「んー、どうかな。出来ると思えば、出来る。出来ないと思えば、出来ない。って感じかな」
「『亡失の7観』、真面目に答えろ」
「真面目に答えてますよー。……まあ、言わせて貰うとね? 一先ずお二人は幸せそうだよ。お似合いだし。でも、あれは互いに相手を見ていない。勝手にパートナーの夢を見ているような状態だね。その幻想が永遠に醒めなければ、それでよし。でも、その夢がもし、醒めてしまったら……」
「簡単に瓦解する……か」
「そうだよ。でも、こんなこと、あたしから聞かなくても分かってた、って感じだね。『潜在の5観』」
 そう言われ、一つ溜息を付く『潜在の5観』ことZ1。それはZ4の言うことがあながち間違っていないことの証左だった。
「ああ。私もそう考えて、この一週間を使って多少刺激を与えたつもりだったが、彼はさらに深い夢を選んだようでね。それでは少々都合が悪くてな。それで貴様を呼んだんだよZ4」
「だよね。そんなことじゃなきゃ、あたしが呼ばれる訳がないもんねー」
 Z4はやれやれと肩をすくめた。
「油断しているな、Z4。それでまた涙目で逃げ帰ってきたら、笑いぐさにもらんぞ?」
「あー、そこは、あの、そう。アドリブで……。いや……、アンタに任せた……」
「おい」
「うそうそ! 嘘ですー、ちゃんとやりますよ、はいはい。それで、その、『保証』……だっけ?」
「Z4……、先に一応言っておくが。そんなものはただのY1の時間稼ぎだ。敢えて通常の手順に近いものを踏ませて自分が扱いやすい土壌に引き込む。さらにX1に入れ知恵する時間も作れる、良い手だ。しかもこちら側からしても、話が進むのには変わらないから企みに乗るしかない」
「つまり、『Y1あのこ』に嵌められたって、こと? そんな感じはしなかったけど……」
「罠に掛けた。なんて大層なもんじゃない。しかし重要なのは、『Y1』は貴様と即座に戦闘可能だったにも拘らず、それをしなかった、ということだ。それで代わりに何をするかと言えば、徹底した衝突回避。或いは戦略的に『亡失の7観』という存在を攻略しようとしている。……この事の意味が分かるか?」
 分かんない。と、Z4は首を捻る。それを見たZ1は再度ため息を漏らす。
「それは、Z4。貴様を大して敵だと思っていない、ということだ……」
「えっ……、今度も勝つ気満々ってことッ?! あはは。恋人出来て、大胆になったね、『Y1あのこ』」
「貴様は、人の心が分かるんだか、分からないんだか、分からん奴だな」
「違うよ。人の心が解ることなんて無い。ただ、ほら。その人の……ほら。カタチ? を、ねえ。見てみようと思ったら見えただけで……。何かそれが見えるのって変らしいから、エスパーってことらしいので、あたし……」
「ああ……、そうだったな。もういい。兎に角、家賃保証会社と仮の身分証明書、そして家賃引き落とし用の銀行口座を用意する。カネは入れておくから、ATMで確認しておけ」
「…………うん!」
「……大丈夫だろうか」
 Z1は心配だった。


 思いがけない事態の連続。X1は一度自室へ戻ると言って階下へ降りて行ったY1を待ちながら、Z4がこれからどんな手段、どんな目的で自分らに干渉してくるかを想像しながら戦々恐々としていた。
「天下の『バイアス』の構成員が、俺を狙う……。でも、俺を女性に誘惑させるなんて手段を使っても傷付くのはY1さんだ。じゃあ、狙われているのは、Y1さん? 何か、前提が間違ってる気がする」
 先程のY1の説明を頭の中で反芻してみる。さらに彼女に教えてもらった、X1自身が『バイアス』に狙われるようになった理由。
 その事情を含め統合して考えても、現状を理解し納得できる答えが出ない。
 推理できるだけの情報が集まりきっていない。そう感じざるを得ない。
 ――自分やY1が、Z1に恨まれている――。それなら説明も付く。しかし、ハニトラ的手段の説明が付かない。
 ――X1のみ。或いはY1のみが、個別に標的である――。それなら手段に説明が付く。しかし、理由に説明が付かない。
「今は、Z4に詳しいY1さんの指示通りに動くのが最善か。でも……、でもなァ……。Z4さんを、甲物件ここの一室に受け入れるのか……。危険リスクだよなァ……」
 欲を言えば、『既に空き部屋に客がついた』とでも言って入居を断るところだが。相手が『バイアス』ということでそうもいかない。
「普通、危険人物といえば『反社会的勢力』だから。そうだったら普遍的な理由でお断り出来るんだよ。でも、『バイアス』は言ってしまえば『純』社会的勢力。それか、『超』社会的勢力だから、理屈が組めないんだよな」
 手段はどうあれ、この世界の平和への奉仕者を、不用意な理由で排除することなどできない。X1は、自分の真面目な性格をまた一つ嫌いになった。
「仕方ない。ちゃんと家賃を払って入居するってなら、認めよう。Z4さんを……」
「しかし、ちゃんと準備をした上でですけどね」
「えっ!?」
 X1が振り向くと、そこにはいつの間にかY1の姿があった。思わず立ち上がるX1に彼女は困った顔で笑いかける。
「驚かせちゃいましたね……」
「あ、す、すいません。ちょっと考え事を……」
 そんな緩和した会話をしつつも、X1の目はY1が手にしている書類に向いていた。
「はい。X1さん。契約書の雛形です。仕事道具に常備があったので、これを使いましょう」
 それに気づいたY1が、クリアファイルに入った数枚の契約書を机に広げる。
「Y1さん……、ありがとうございます。って、ああ、そうか。契約書を用意しなきゃか。Y1さんの時は……あれ?」
 彼女との契約を交わした時の事を思い出す。しかし、不思議なことに契約書を用意した覚えがない。
「あの時は、Y1さんがさらっと持ってきたから気にしませんでした。あれ? もしかして、俺が契約書を作るの? 本気で?」
「本当にです。驚きですか?」
 驚きも当然だ。賃貸借契約書など、不動産屋と借主の間で取り交わされるだけで、特約に文言を書き加えるときだって目にしない。
 大家として実物を目にする機会と言えば、複製を保管する時くらいだ。しかし、このような場合は自分で契約書を作成する必要がある。
「ああ……通りで世間では大家と借主の直接契約が少ない訳だ。そんな書類の作り方なんて考えたことも無いですよ」
「いえ、普通は自分で入居者を集められないから、不動産屋に広告してもらうんですよ」
 あっ、そうだった。と、X1は忘れかけていた常識を思い出す。
「兎も角、契約書の作成自体は雛形はあるのでこれを調整するだけでいけます。甲物件の住所や面積、賃料や敷金、契約期間などの基本的な情報を追加すればいいんです。念の為、重要事項説明書の雛形も用意しますけど……」
「そうですね……、『重説』の方も頂きます。はー……何か緊張する……。ちょっと待ってください。すぐ、やっちゃうので」
 椅子に座ると、X1は机について契約書の情報を書き足しつつ内容を検め始めた。しかし、やはり気が気でならない。Z4のような人間と契約など成立するのだろうか。
 だがX1はただの一般人だ。なら、一般人らしく、一般人の規範の中で、対応するしかない。
 例え、そうすること自体が一般の範囲をとうに超えているのだとしても。
 もう、彼に選択肢など無い。

 その日の夕方。何処いづこからか、運転免許証や収入証明書やらを持ってきたZ4を前に、X1とY1は完成した契約書と重要事項説明書を差し出す。
 初めて家を借りるんだ! と興奮状態のZ4を席に着かせるのに、自分だけでは力不足だろうな、とX1はY1の手際を見て思う。
 多少落ち着いてきたZ4は、目の前に差し出された賃貸借契約書と重要事項説明書を手に取り、一通り目を通した。
「ふーん。これが契約書っていうの? なんか、難しそうな文字がいっぱいだね」
 Z4は、Y1とX1が作成した賃貸借契約書を目にしても内容が頭に入らないようだ。
「じゃあ、これにサインすればいいんだね。それなら、早く済ませちゃお」
 Z4は、契約書に目を通すことなく、ペンを手に取ろうとした。そんな姿にX1は反射的に彼女を止める。
「ちょっと待ってください、Z4さん。契約書にサインする前に、ちゃんと内容を確認しないといけませんよ。これは、あなたの権利と義務を規定する重要な文書です。もし、重要事項説明書や賃貸借契約書に書かれていることに同意できない場合は、サインしない方がいいですよ」
「えー、でも、こんなに長いの読んだら、時間がかかっちゃうよ。あたし、読むの苦手だし。アンタたちが作ったんだから、大丈夫でしょ? 信用してるよ」
 信用などと言われても、困る。これでは、どう対応するのが正解か解らなくなるではないか。
 X1はY1に目配せで助けを求めたが、彼女は不敵な顔で微笑むだけだ。やはりZ4に対して何か思う所でもあるらしい。
 仕方ないので、X1は自分が何とかするしかないと腹をくくり、言葉を選びながらZ4を説得することにした。
「Z4さん、ちゃんと読んでください。これは、あなたが甲物件に入居するための重要な契約です。もし、契約内容に違反したり、不履行になったりしたら、大変なことになりますよ」
「やだな~、そんなことしないって。あたしが約束破るわけないじゃん」
 X1はZ4をの発言を疑惑の目で見るが、その胸の内を読まれたように彼女は朗らかな笑みを浮かると、自信ありげに胸を張りながら答えた。
「でも、仕方ない! きっと、必要なことなんでしょ? 最後まで付き合うって!」
 元気に答えるZ4に、X1は調子を崩される。彼女は個人間の信用というものをどう考えているのだろうか。
 しかし、その理由にも思い至る。彼女は精神干渉系能力者『亡失の7観』。相手の心を読めるのなら、自分達には思い至れない根拠により信用を得ている可能性が否定できないのだ。
 ともあれ、X1がこのZ4と契約を交わさねばならないことには変わりない。彼は、自分の責任として、Y1と共にZ4に重要事項説明書と賃貸借契約書の重要な点を説明し続けることにした。
 決して、敵であるかもしれないZ4の為ではない。自分のため。自衛のための説明。
 どこまでモラルがあるのか分からない対象への、精一杯の抵抗。
 ただ、その後のZ4は説明受ける都度うんうんと頷き、X1の説明を受け入れてくれていた。
「次に。第二条は重要事項説明書にも同様の項目がありますが、賃貸借契約の期間についてです。この契約により、あなたは甲物件を二年間借りることになります。期間満了後については、更新するかどうかを相談することになります」
「ふーん。二年か。長いね。でも、あたし、ここに住みたいから、いいかな。ふふっ、当分アンタたちと一緒にいられるんだ。楽しみだな」
「私は、嬉しくないですけどね」
 むくれた顔をするのはY1だ。
「嘘ばっかり」Y1を茶化すZ4だが、Y1はそれを無視して、今度は自分が説明に入る。
「さあ、第三条に行きましょう。第三条は、使用目的についてです。この契約書により、あなたは甲物件を自己の居住のためにのみ使用することになります。ここは、重要事項説明書の用途その他の利用の制限に関する事項と同じですね。他の目的で使用する場合は、第十九条の特約に追加するのでX1さんの承諾が必要です」
 Z4はちらりと十九条のページを一目見る。
「いや……これだけで解るよ。信用してるんだ、あたしは。アンタたちのこと。だから、これで名前書いちゃうよ」
 その後は流れ作業のように、賃料や敷金、原状回復費用に修繕、禁止事項についての説明を終わらせる。
 最後に、Z4から契約書を返されたX1は、押印欄に捺印を求めた。
「はい。これで契約は終わりだよ! これからよろしくね! X1さん!」
 そして、Z4は自分の名前を書き記した。
「ええ……これからよろしくお願いします、Z4さん」「ええ、さっさと規約違反でもして、早々に契約を終わりにして頂きたいものです」
「Y1さん?!」「『Y1』、意地が悪いよ?」
「ふふっ。冗談です」
 楽しげに笑うY1に、X1はため息をついて契約書のコピーを取る準備に入る。何故か、Y1はZ4に対し、こういう態度だ。怖いというか、親し気というか。そんな絆を感じる。
 そう思ったので、X1はY1の手前であることもあり、いっその事聞いてみる。
「二人は、どんな関係なんですか? さっきは知り合いとか、親友とか言ってましたが……」
「そうだよ、幼馴染でね」「古い知り合いです。私のことなんか、忘れたと思ってましたが、こういうことは覚えているんですから」
「ええ……そうなんですか。最近まで、疎遠だったとか?」
 X1は二人がそんなに長い付き合いだとは思わなかったので、驚きを隠せない。
「まあ定期的に顔を合わせますけど、Z4は忘れっぽい女なんですよ、X1さん。昔のことばっかり覚えていて、私がこんな風に何度突き放しても、すぐ忘れて懐いてくるんですから。医者には、若年性健忘症とか言われてるらしくて」
「えっ?」
「そうなんだ。あたし、記憶喪失でね。色んなこと忘れちゃうんだ。でも、昔のことは覚えてるから、辛くないよ。昔馴染みの、『Y1このこ』も居るしね」
「そっ、そんな感じ、だったんですか……」
 X1の心が、次第に行き場のない感傷に満たされていく。
「苦労、してきたんですね……」
 それは、どうしようもない、同情。彼女の話が嘘か本当か、それすら確認する猶予もなく、ただ、X1は自分の過去を噛み締めていた。

「とにかくX1さんとの契約は成立したのですから、さっさと初期費用の支払い準備でもしてください。あっ、そうそう。Z4、貴女の部屋は305号室です。間違えないでくださいね。入居日は今日からですから。現状の鍵はこれです」
 305号室の合鍵を持ってきたY1は、Z4にその一本を渡す。渡されたピンタンブラー錠を、手元で回し弄び始めるZ4を見ながら、X1には思う所もある。
「改めて考えて、やっぱり今回おかしいですよ。普通内見無しで、部屋を借りません。こんな、ホテルの部屋を借りた時みたいなやり取り、起こりませんから」
「へー、そうなんだ。知らなかった! って初期費用って何?」
「さっき説明したでしょう。敷金、礼金、初月の家賃。あと火災保険に入っておいてください、可及的速やかに。あと、ご希望なら鍵を最新のディンプルキーに交換してあげますよ? 有償で。それに最初の家賃は今月分を日割りで、来月分と一緒に今月二十七日に引き落としますから、銀行残高に注意してくださいね」
「うわー。そんな沢山分からないし、おぼえきれないー……。大変だー」
「じゃあ、乙不動産ウチで勧めてる損害保険会社に入ってもらいますね。Z1に言えば手続きはしてもらえるでしょう」
 スムーズな誘導だな……、とX1は思ったが、今は口出ししないことにした。
 契約書のコピーを見ながら、X1は書いてある連絡先が気になる。固定電話の番号に思えるが、何処に通じるのだろうか。
「そうだ。Z4さん、この契約書の電話番号って、ちゃんと通じるんですか?」
「あっ、それは……。えへへ、掛けても良いよ」
 Z4は、契約書に書かれた電話番号を薄目で眺めながら言った。X1は不審に思いながらも、自分の固定電話でその番号にかけてみることにする。
『こちら、優先電話交換機構。お電話番号を承りました!!』
 電話に出たのは、女性の声だ。その声は、電話越しでも分かるほどには元気が良い。そう、つい先日も聞くことになった、謎の電話交換手の声だ。
「ああ、そうだった。めんどくさいな……、これ」
 毎回これかと辟易するが、しかししばらくすると、『了承いただきました。今、御繋ぎしますゥ!』とまた同じように電話を繋ぐ音がして、X1はふと変に思う。おかしくないか?
「へっ? 今、Z4さんはここに居るのに誰が……」「おおX1さん。貴方からお電話とは。珍しいことも、」
 ガチャン。
「Z1の番号でした……」
 残念なオチだ。
 ピロピロピロ……。
「今度は向こうから掛かってきた……」
 ガチャ……。
「もしもし」「酷いですねえ、X1さん。今から引っ越しのご挨拶に伺う所でしたのに」
「……これは、ご丁寧に。でも不要、」「Z4の件、ありがとうございます。居住を、許可して頂けましたね?」「まあ……、え? でも、何故それを……、」
 そこでY1が来て、電話を替わって欲しいと仕草で伝え、すぐさまX1から通話を交代させる。
「Z1、こちらの状況は把握してますね? 目的は何ですか。まさか、一度は見逃してやった『亡失の7観』を、むざむざ使い潰す気ですか?」
 唐突に険悪な会話が始まるが、X1にはZ1の声は聞こえない。
 X1はZ4の様子も見てみるが、ポカンとした顔でよくわかっていないようだ。キョロキョロと部屋を見渡しては見慣れないのか、部屋の内装に機嫌をよくしている。
「『預かる』? よくわかりませんね。こっちの裁量でもし、処分されたとしても構わないと?」
 Y1とZ1の会話内容に物騒な言葉が連続し、X1は多少の震えを感じてしまった。しかし、やはりY1さんの真剣な表情は凛々しくて綺麗だと思い直しもする。
「余計なお世話もいい所ですね。それに、貴方にX1さんは渡しません。私が生きている限り……、いえ、その後だって、貴方の思い通りにはならない」
 何か、会話の行方が不穏だ。取り敢えずX1は、相も変わらずニコニコして元気なZ4が、家の中で不審な事をしないか、見張ることにした。

 その後、電話の終了と共にZ4が「じゃあ、また来るね!」と言って立ち去ることによって、X1の部屋には平穏が戻る。しかし、今日の一連の出来事がX1には、先日と同等以上の重厚さを持ち、その上、彼の心もかき乱された。
 Z4の世間知らずについてだってそうだ。Y1も同意するようにZ4が記憶喪失なら、世間知らずも納得な所だ。不動産の契約についてもそうだが、その他でも子供っぽい部分が多々あり、気になっていた。
 それは、これまでの自身の存在規定基盤を最低でも一度は失った経験があるという事だ。そう考えたX1はZ4の境遇に同情すると共に、彼女を無下に出来ないという気持ちが湧いてくる。
 これはX1個人の勘だが、Z4は自分らに害を為す様な人間には、とても思えないのだ。むしろ、彼女の純真さや素直さに、何処か心を赦している実感すらある。
 『バイアス』の精鋭に対し、こんなことでは問題なのは確かだ。しかし、この優しい心持ちには嘘をつけない。それが、X1のZ4への印象だった。


 Z1は電話を切った後、レーザー盗聴器の電源を落とし、窓のカーテンを閉め切る。久々の家などに郷愁も無いが、それでもリフォームに多少ムキになった自分に驚く。
 しかし、重要なのはZ4のこと。Y1はああ言うが、彼女がああいった言動をするときは、逆に問題は起こらないと相場が決まっているというものだ。
 少なくとも、今は。
「これで時間が稼げるだろう……、Z4。これで貴様があの、『懐胎』に呼びつけられることも当面ない。私は、見ていられないんだ。『正常』を認めるからこそ、私は私の『正常』に徹してもいい。それが、許されている筈だ」
 彼は、すっかり薄暗くなったリビングの照明を点け、真新しい床板を忌々し気に踏み躙る。
 決別は、済んだ。それでも――。
「だが、まだ時間が必要なんだ。選別するための、調査期間が――」
 彼の肩の荷が下りる時は、まだ来ない。Z1は無意味な葛藤を抑え、夕食を作ることにした。
 今晩は、『X1』の好物を作ろう。こんな日くらいは、『X1』もジャンクなものが食べたいかも知れない。
 新品のキッチンでバンズと牛肉を焼き上げ、ハンバーガーを積み上げる。これが『X1』のお口に合うと、良いのだが。



「いやあ、通せましたねY1さん。特に危なげなく契約書の条件を呑んでくれて、ホッとしました」
 夕食時。X1とY1の二人はうどんを食べながら、雑談をする。
「まあ、私達に出来る事はこれくらいです。敷金三か月と賃料五割り増し。これ以上は監視しているZ1から、要らぬ不興を買うことになるかもしれません。しかし、ここまでなら妥当な範囲と言い張れるでしょう」
「それなら助かりますけど。でも、緊張が取れません。さっきの電話もですけど……。何を話したんですか、Z1とは?」
「ふざけた話です。Z4を預けるって、言ってきました」「まあ、確かに形的にはその通りですが……」
 二人は各々に収穫と結果を話し合っていると、そのうちに時間は経ち食事も終わる頃になる。そして二人ともが食べ終わり、片付けようと食器を重ねる。

 振り返ってみると、X1自身今回の問題には、違和感を覚えていないわけではない。
 当然ながら、『第六の正常』『バイアスVIAS』の存在や、それら組織との対立関係――、それも異常と言わざるを得ないのは勿論だが。
 今、風呂に入りながらX1が覚えているのは、そういった方面の違和感ではない。
 いとも容易く生活環境に入り込んでくる、Z4もとい『亡失の7観』の所業か? 隣に引っ越してきて、それでいて自らは目立った行動をしてこないZ1か。
 違う。この、混乱した状況を受け入れ、遂にはZ4との賃貸借契約すら結んでしまった自分自身。
 そして、冷静だったり、落ち着きがなかったり、時に取り乱したり、怒ったり。こんな状況だからなのか、色々な表情を見せるようになったY1。
 彼女は、本当はZ4の登場をどのように考えているのか。Y1とZ4の過去に何があったのか。彼には分らない。
 しかし、それを仮に知ったところでX1に何が出来るのか。知ることは、もっと混沌とした狂った状況を呼び込むだけなのではないか。
 X1は思い出す。
 『自分達が狙われる理由』。『バイアスVIAS』が、X1やY1の周囲をうろつく理由。
 それが何故なのか、全く想像が付かなかった今日の朝。X1は戸惑いと共に、Y1にそれを質問したのだった。

「それで、結局俺やY1さんが狙われているのはどうしてなんですか? 俺達はそんな危険人物じゃない……」
 『バイアス』に関する一連の説明を受けたばかりのX1は、この組織が自分のような個人を狙う理由が分からず彼女に疑問を投げかける。
 そう、『バイアス』が敵対するのは、彼らが守護する人類文明を破壊しかねないような敵であり、自分達はその対象に当たらないのではないかと。
「確かに、『第六の正常』が定めた敵の概念には当てはまらないです。でも、もし私達が正統な意味での彼らの敵なら、あの『優先法務局』から私たちは帰ってこられたと思いますか?」
 だが、これにはX1も納得するしかなかった。彼らが鉄砲の一つでも、否、ナイフの一本でも持ち出してくれば、自分など即死だった。
 言うなれば。昨日の『優先法務局』での出来事や、今回の出来事はこういった不条理な様相を呈してはいても、あくまで『バイアス』はX1やY1を敵として扱っている訳ではないということになる。
「つまり、さっきの話で出た活動理由とは、別の理由わけがあるってことですか」
 X1は、自分を敵としてみる組織から狙われる理由がない。しかし、それでも彼らの監視の目はついて回り、今に至るわけだ。
 そしてZ4の来訪も偶然ではなく、彼女を含めた『彼らVIAS』がX1やY1を監視する理由は別の所にあると考えられる。それが、彼らの定義する人類の敵という意味ではないにしてもだ。
 そして、Y1はこう続けたのだった。
「そうです。それは、X1さん。貴方に発現した希死念慮。それが……理由の一つとなったのです」

 X1には覚えがある。一年前。Z1にリフォーム費用で騙された時の、あの絶望。あの時、確かに彼は『死』を想った。しかし、誰にも教えていない心の闇。そんなものが原因に? しかし、だから無関係と断じてしまうには、今の状況を見るに、もう手遅れだった。
「でも、な、なんでそれが……狙われる理由に……訳が分からない……」
 自害が心を過ったから、狙われる。到底納得できるものではない。が、これで説明可能な部分も無いではない。特に、Z1が関与しているからには。
「ですが、その思考が、その後の行動が、多くの人物に影響を与えたのです。私や仲間たち。そして、『第六の正常』の幹部に」
 想像もしたくない合点が、X1の脳内で到達しかけている。一年前、彼が敵に回した組織、人物とは何だったのか? そう、『丙社』だ。Z1の勤めていた、あのリフォーム業者。そして、社長のZ2。あの社長がその、『第六の正常』の幹部だとしたら? それで説明がついてしまう。
 丙社をネット掲示板で貶し、被害者の会に加入し、裁判を起こし、ついには仲間たちと共に、悪徳企業である丙社を追い落とした。
 D1、D2、D3、D4、D5そして、D6ことY1。彼らと戦った日々は、今も昨日のことのように思い出せる。
 あの行動が間違いだったと、いうことか? X1の思考が混沌とする。Z1は影絵美術館でこう言っていた。
 『縁とは、切っても切れないもの』、『目立てば敵も増える』、『文明社会で生きていくなら多少のリスクは付き物ですよ、X1さん』
 そうか、そうかそうかそうかそうか。そうだったんだ。そういう意味か、Z1!!! これが、報復だと、俺の愚かな行いの結果だと。そういうつもりなのか!?
 思考が連続して連結していく感覚。ひらめきと閃光。関わってはいけない世界との交わり。その後悔。それが、彼の、絶望。彼の、憂鬱。
「そう、でした。俺の、せい、なんですね……」
「理由の一つに過ぎませんし、X1さんが悪い訳ではありません。ですが積極的な標的になったのは、それが最大の理由です」
 X1は、がくりと頭を下ろし、思考を止める。取り返しのつかない。引き返せない、道の誤り。
「俺は、なんてことを」
 しかし、言い知れぬ困惑も、恐怖も。これが彼の初めてではないと、彼は、そうも感じるのだ。こんな時、自分ならどうするのか。今なら、大切なものを守ろうと、するのではないか。
「仕方がなかった。私は、そう考えています」
 彼女もこう言ってくれている。それだけで、X1は、どうしようもない過去を。変えることの出来ない事実を。
 ただ、彼自身の心の確信として、疑わずにいられる気がした。
「わかり、ました。きっと、あの事件が無ければ、俺とY1さんも、他人の関係だったでしょう。俺は、自分をどう納得させればいいか分からない。まだ分からない事ばかりで、何を言っても的外れになってしまいそうです。だから、今は、どうしようもない過去の原因ではなく、今、最善を尽くそうと……」

「そう、思います。Y1さん……」
 あの時、彼はそう答えたのだった。
「さあ、そろそろ上がろう」
 考え事をしていて、長風呂になっていないだろうか? 考えて、おかしなことを思うものだなと自分でも思う。
 Y1が傍にいてくれると安心する。昨日まで、Z1に彼女が拉致されていたから、余計にそう感じる。
 結局、彼女を救い出す所か、『書式の42観』から彼女に救われる始末だった。だから、今回のことも彼女に頼り切りになってしまう気がする。
 しかしこれではいけない。彼女の負担に、X1は極力なりたくなどないのだ。
 もっと、ちゃんと、自分も何か知恵を出せないだろうか。
 自分では無理でも、誰かの助言を仰ぐとか……。
「『バイアス』の相談を、誰にするっていうんだ、俺は」
 浴室から出て、体を拭くX1。ふと横を見ると、そこに全裸のY1が居た。
「X1さん、もうお風呂出ちゃったんですか……?」
「え? ……あ、はい……。すみ、ません?」
「折角覚悟を決めて来たんですけど、時間掛け過ぎちゃったみたいですね……」
 彼女は、目線をX1から逸らしつつ、さも残念そうに体を隠す。その手で多少は見えなくなるが、その肌は各所に新旧入り混じる傷跡が目立つ、痛々しい様相だ。
 だがX1。もう一風呂浴びる位の、余裕はある。彼は彼女の手を取り、来るよう促す。
「寒そうな格好の女性を、一人脱衣所に置いていくなんて出来る訳がないじゃないですか。ほら、入りますよ、浴室は暖かいですから」
 冬空の寒さを味方にし、X1も彼女の勇気に見合うだけの、行動を示す。
「はい」
 Y1の返事を合図に、X1は浴室の扉をゆっくりと開けて彼女を迎え入れたのだった。


「あーあ。お部屋を借りるのがこんなに大変なんて、聞いてないよー。でも、あたしが一人で使えるお部屋が増えちゃった! しかも、自由にしていいなんて、なんか、わくわくするかも!!」
 Z4は305号室のクッションフロアに仰向けで直接寝転がり、一日の疲れを表現するように大の字で万歳をする。
 彼女の周りには、署名済みの契約書やY1が持たせてくれた不動産用語の説明時に使ったメモ書きが散らばっていた。
「でも、あたしにこんなに良くしてくれるなんて、やっぱり『Y1』もX1様も優しいなあ。流石は幼馴染な親友と、運命の人だね。せっかくこんな頑張って教えてくれたんだし、あたしも頑張っちゃおっかな?」
 それは、彼女の単純な興味。あの『Y1』が棘のある言動の中に見せた、幸せと。それを脅かしてしまうかもしれないという、苦悶。綯い交ぜとなった『Y1』の感情と。
 それでも、その行動の原点には『優しさ』があるのだと解るZ4自身の感性が、彼女の興味を引く。そして、だからこその危険性も。
「『貴女にも分かりやすいように』、だって。ふふふっ。アンタって、こういう婉曲表現イヤミが下手なんだから、ただ可笑しいだけですよー、『Y1』」
 そうして彼女は、寝たままY1のメモ書きを手にしてみる。これを読めば、先程の契約書の内容について多少理解が進むらしい。
「えーと。『一般常識を知らない貴女でも、これなら少しは頭に入るでしょう? まずは敷金。何故払わなければならないのか不可解、でしたね?』」
「そうだよ。最後にお掃除する時汚した分だけ払えばいいじゃん。なんで最初にお金を持ってくの? 変なの」
『それは、貴女が任務で使用する『断絶の瞑目マスク』や『破戒条理ローブ』等の装備や備品を借りる際に預かり、帰還まで保管する保証金のようなものだからです。貴女が任務中に装備や備品を壊したり、紛失したりした場合、敷金からその費用が差し引かれます。任務が終了した時に、保管されていた敷金は損失の補填分が差し引かれた後、貴女に返還されます。この仕組みがあることで、組織は隊員に装備を。部屋の持ち主は、客に安心して部屋を貸せるんです。部屋も装備も大事な資産ですからね。粗野な個人に無駄に潰されたくはないんですよ』
「へぇ、そうなんだ。結局、安心の為なんだね。つまんないの。でも、確かに『罅隙かげきの3観』とかはよく『聖徒どうぐ』を面白半分に壊すらしいから、こういう取り決めが有ったら勿体無くないかも……。ふむふむ」
『次に、礼金です。これは、貴女が任務で使用する拠点を提供してくれる心優しきX1さんへの感謝の気持ちを表すお金です。感謝の念と共に、沢山支払うと良いですよ。Z4』
「これは分かりやすいかも。業突張りの考えだ。感謝の押し売りが文化なのかな? でもあたしは感謝の気持ちがあるから、ちゃんと払ってあげるよ! X1様は、あたしにとって大事な存在だもん」
『そして、原状回復費用です。これは任務終了後、現場から『亡失の7観』という存在が居た痕跡を消すための費用です。任務中に貴女がしたことは、任地に遺すべきではありません。『バイアス』は秘密組織なのです。自然に時間が経った。そのように見えるよう、現場状況を調整する。これはそのための費用です。この費用は、敷金から差し引かれますが、敷金を超える場合は、別途支払う必要があります。』
「なんか、やだなー。あたしのしたことを無かったことにしちゃうんだ……。でも、それも含めて任務だもんね……」
『最後に、火災保険です。これは、任務中に予想外の損害を負った場合にその損害を補償する制度です。火災保険に加入することで、想定外な損害を最小限に抑えることができます。火災保険は、任務で貴女が全力で活躍するためのセーフティとしても重要です。』
「ふーん。火災保険って、そういうことなんだ。失敗も想定外も想定済み、みたいなのは今回の任務もそうだから、納得だね。だからこそ、気楽に、本気でやれるんだよ」
『あと、ペット不可です』
「いいよ、それは。忘れっぽいあたしがペットなんて飼うモンじゃないよね……」
 Z4はそう言って、メモ書きを置いた。
 分からない言葉や分からない言い回しなどが幾つもあったが、一つ一つ噛み砕いていけば理解できなくもなさそうだった。
「はあ。それにしても、あの特約……だっけ。あれが一番、良かったな。なんて言うか、『Y1』って感じで」
 彼女は違う書類の最後のページ広げる。今度は賃貸借契約書だ。その十九条にある特約には、『Y1』の手書きでこう書き加えてあった。
『乙は任務が失敗したからって、勝手に消えてはならない。クソ面倒なんですから。後、乙は本物件の敷地内で死んではならない。クソ迷惑なので』
「馬鹿みたいな規約。でも優しいや、『Y1』。やっぱりあたし、アンタのこういう所、大好きだよ……?」
 こんな記述の端々から、『Y1』のそんな誠実で真面目な性質も十分過ぎるほど伝わる。
 しかし、Z4はそれでも『それ』を全うしなくてはならない。任務だからというだけではない。宿命が、運命が、絆が、X1『Y1』両名による関係の不自然さを物語る。そんな悲劇を、起こさないために。
「ふふっ、でも『Y1』、アンタだって理解できてるはずだよ。きっと、あたしが来なくてもアンタは勝手に壊れる。それを、あたしは少し早めてあげるだけなんだって」
 布団も、カーテンも家具もない部屋で、夜が更けていく。空腹を感じたZ4は生活用品のことは後にして、今夜の御飯を恵んでもらいに、Z1の所へ向かうのだった。

 Y1はX1と体を重ねながら考える。
 自分がなぜ、彼を愛するに至ったか。
 Y1はX1と口付けを交わしながら考える。
 今、自分が何をすべきなのか。
 Y1は、X1の顔を眺めつつ考える。
 自分が何故、今自分が明らかにすべきことを、為せないのか。
 それは。
 憎み切れないから。愛しきれも、しないから。
 だから、それが温かな想いになるまで。
 そうなるまで、Y1は待つ。
 温かな想いが、熱にならないことを祈りながら。