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A Gloomy Part-Time Lord "X1" of a Rental Apartment Building

或る兼業大家"X1"の憂鬱

エピソード6 継起

プロローグ

 X1が優先法務局から脱出した次の日。Z4という女性はこれで二度目となる道順を、今回は落ち着いてなぞっていた。
 今日のZ4の目的は彼に逢いに行くことだ。先週、あるターゲットを襲った際、対象の男気に敗北してしまった。
 そのせいで気が逸れて死にかけたという失敗もあったが、今の彼女はすっかり元気。
 そんな時、示し合わせた様にZ1という男からの着信が入る。彼はZ4が丙社の偽装社員だった時の元上司である。
「Z4、予定通りにな。寄り道はするな」
 感情の籠らない平坦な命令口調でZ1は話してくる。いつも通りのはずの、彼の声に、Z4は今日に限って不慣れだ。
「……うるさいですね、Z1。あたしはもう、丙社の偽装社員じゃないんだから、あんたを上司扱いなんてしないよ」
 Z1は下らないことでも聞いたかのように、溜息を吐いてくる。
「だが、仕事はして貰う。あのX1とあの女、Y1の仲を引き裂け。望むところだろう」
「もう……分かったって。それはあたしの望みと食い違わないもんね」
 Z4はZ1の言葉に応じる。Y1の実力は知っている。Y1はX1『様』の恋人で、彼女の恩人で宿敵だ。
「そうだ。Y1の強さは貴様も知るところだろう。努々、油断するな」
「はーい、了解ですよ、Z1。介入は、無しでお願いね」
 彼女は『優先』という特別な通話システムを使っている。それは交換手経由で繋がるという面倒なものだが、それも『我々』が勝ち取った権利だ。
「さーて、そろそろだね」
 Z4の目の前には、彼の住む甲物件が建っていた。

エピソード6 入居する審判者



「ああ……なんてこった」
 その日の朝にZ1が隣の家をリフォームしていた光景を見たX1は、一旦落ち着くために自宅に戻る。
 彼は前日に壮絶な経験をしたのだ。『優先法務局』そして、『書式の42観』との闘い。
 今までの困難と並び立たない、そんな『異常』らと相対したばかりなのだ。
 だからこそか、Z1が自宅をリフォームしている程度など、どうということはない。
「しかし……、アイツの家? そんなハズはないよな。でも、隣のお爺さんとお婆さんが居るのに勝手にリフォーム出来る訳ないし。なら、やっぱり隣はZ1の家だったって事なのか?」
 そんな時、玄関の開く音がする。その音にX1は思考から現実に引き戻された。
 こんな風に彼の部屋に入ってくる人間はこの世に一人しかいない。X1の恋人、Y1だ。
「おはようございます、X1さん。よく眠れましたか?」
 X1が特に問題なく元気そうなのを確認すると、Y1は安心して彼に笑いかける。
「ああ、おはようございます。ええ、お陰様で」
 X1は、そんな彼女に申し訳なさそうに感謝した。
「それは良かったです。……ですが、申し訳ありません」
 Y1はX1に頭を下げる。彼女は申し訳なさそうな表情で続ける。
「その、Z1とのお話が長引いた上に……その、危険に晒させてしまって……」
「それはいいですよ。Y1さんだって好きで連れ去られた訳じゃないでしょう。それに、あの時来てくれたじゃないですか。そう昨日も言いましたよ? Y1さんが謝ることじゃないと。寧ろ、悪いのは……向こう見ずだった俺の方です」
「……」
 Y1はX1の言葉を聞くと、間に合わせで作ったような笑顔を浮かべる。
「……X1さんは何も悪くありませんよ。そう、本当に」
「そんな事は……ない、です。俺は無策に突っ走った。自分と相手の力量差も弁えずに。あの大男に歯向かってしまった……」
 机の上で、堅く拳を握るX1。
「それこそ、違います。貴方はちゃんと最善を尽くしました。優先法務局で。あの、『書式の42観』を相手に、X1さんは確かに抗い続けたんです」
 そうして暫しの沈黙が訪れる。Y1の言葉でX1の脳内に、昨日の光景が何度も想起される。
 漆黒の通路。仮面の職員。そして仮面の大男。思えば、当たり所が良かったのか怪我も痣が出来たぐらいで済んだくらいだ。しかし、一歩間違えばどうなっていただろうか。
 正に、豪運。これだけの損害で済んだのは、自分自身の技量などではなく、偶然の産物だったのだとX1は理解する。
 異常。埒外。奇怪。不可思議。摩訶不思議。不自然不可解、理不尽、理屈が通らない。
 あの名前に『観』の付くローブ姿の異常者達が『正常』という言葉を使う度に、X1は自身が憤りを感じていたのを思い出す。
 その『正常』そのものを真っ向から否定するような行為を、彼らからしておきながら……。
「そうだ、あんなに堂々と『正常化』をうたっているのに、奴らのやっていたことは全然『正常』なんかじゃなかった……。Y1さん。何か、知っていますか……アイツらの事を……」
 正面に座るY1に、恐る恐る訊いてみる。
 X1はとうに承知している。今まで一緒に暮らしてきた彼女すら、あの異常者達と同類とは言わずとも同程度な存在なのだと。
 疑いようもない。目の前で臆することなく『書式の42観』と戦う彼女の姿を見てしまえば、無理やりにでも複雑な感情を腑落ちさせるしか無かった。
「……はい。彼らのことを、私は知っています」
 そう、彼女も言う。
「……!」
 寧ろ、彼女が一瞬でも逡巡しゆんじゆんする様子を見せたことにX1は驚く。
 逆に何でもないことのように、『知ってますよ? 当たり前じゃないですか。優先法務局? 超能力者? 常識です。X1さん、知らなかったんですか?!』という返答をされるのではと身構えていたX1は、開けっ放しになっていた口を閉じるのに十秒ほどかかった。
「ふふふ……」
 微かな笑い声が彼女から漏れるのを聞いた。口元に手を遣り、何か愉快なモノでも見たかのような所作から自然な笑みが零れている。
 中々、そんな和やかな雰囲気にならなかったこの頃で、やっと日常が垣間見えた。X1はこんな表情の彼女が見たかったんだなと、その笑顔を見て思う。
「ふふ……変ですよ、ふふ、X1さん。口開きっぱで……ふふ。驚き過ぎです……」
「いや、いや。まあ、驚きます。でも、まあ、予想して無かったと言えば、嘘になりますけどね」
「まあ、隠す段階にはもうありませんからね。それに、こういうことを知ってるってことを隠されていたのって、X1さんとしては、やっぱり許せないと感じますか?」
 真剣な表情で彼女がそんな繊細な質問をしてくるものだから、X1は思わず適当に返してしまう。
「さて、どうでしょうかね。相手の気持ちになって考えてみてください」
「うっ……」
 珍しい、Y1の狼狽えた表情だ。それを見届けたX1は彼女に『大丈夫』と告げる。
「心配しないでください。事前に言われてたって多分冗談だと思っただろうし。信じたとしても、きっと俺は『優先法務局あそこ』で無様に同じことをしてました」
「……ふう、よかったです。よくありませんけど。ああ、戦いより緊張しました。……少し誇張し過ぎましたね……。あと『無様』禁止です。自分の無事をそんな風に言う人、私嫌いです」
「ごめんなさい。それで、今、教えてくれますね? Y1さん。『アイツら』が、一体何者なのか」
 休日の朝の居間に、再び日常ならざる緊張感が戻る。それを耐えてでも、X1はそれを聞かなくてはならない。
 そして、目を閉じて数秒の後、考えのまとまった様子のY1の口から一気に説明が為された。
「秘匿同盟『第六の正常』直轄、文明維持異能部隊。通称『バイアスVIAS』――それが連中の正体です」


 秘匿、第六、文明、『バイアス』。今一、単語が頭に入ってこない。しかし、『正常』という言葉の響きだけは、明確にX1の頭蓋に浸透する。
 それが、第六という言葉と共に語られた。ということも理解する。何というか、それだけがこの説明が辛うじてX1自身が出会ったモノとの合致点であり、問題点だった。
「『第六の』……」「『正常』、です。彼らがその単語を我が物顔で振るう理由がそこにあります」
「まさか、一から五も!!」「一から五についてはちょっと置いておきましょう」
「はい……」
 思いついた事をそのまま言ったらY1に水を差されたX1だが、それで不安と興奮が収まる訳ではない。
 まあまあ、と手振りでY1はX1を宥める。
「取り敢えず、落ち着いて。今話すべきは、『観隊、バイアス』についてです。『正常の為の異常』。異常な干渉により標的を強引に『正常化』しようとする。内界の正常を保つために、自らに『異常』を受け入れ、外れた者たち――」
「『正常』の為の『異常』……」
「それが、観隊『バイアスVIAS』。『真の正常性』を謡う『八基の正常』屈指の、埒外な異常集団です。X1さんが遭遇した、『42観』も、勿論Z1も、そう」
 Z1……! その単語が聞こえた瞬間、再び上昇していくX1の血流量。
「……Z1……、そうだった。そうだ、奴らの仲間だ。そうだった。アッ、隣……」
 くるりと窓の外に見える隣家の様子を見るが、そこからZ1の視線を錯覚して、素早くY1の方へX1は向き直った。すると、Y1が説明を続けてくれる。
「いいですか? 『バイアス』の存在目的は、人類の文明を直接的に保護する目的で結成された、言わば『第六の正常』の実働部隊。つまり、人類文明の『警察』です」
「えッ……????」
 頭が、真っ白になる。あんな非人道的な連中が、あろうことか、『警察』に例えられるなんて、有り得ないと、X1は思う。
「まあ、『警察』と言っても少数精鋭の『特殊部隊』が妥当な所です。少数なので、現在日本には、百人足らずしかいません」
「あはは……、少数……。はい……。日本には……、あはは」
 頭がどうにかなりそうである。X1は自分が、遠い別の日本そっくりの別世界にでも来てしまった錯覚を覚える。
 しかし、頭痛を起こしそうな頭を抱えながら、何とかY1の話に付いていこうと質問だけはしておく。
「その、過激な、警察なんですね。警察にマークされる人間の気持ちってもしかして、こんな感じなのかな……なんて」
「そうですね……、お察しの通り、過激です。本物の警察のように、おおやけの法律による抑制もありません。自前の規則はありますが、『正常性』を保つためなら『何でもし放題』が彼らの基本スタンスです」
 絶望するしかない組織体制に、閉口しそうになるX1。しかし不明点ばかりな『バイアス』の、一番納得のいかない部分と言えば、やはり一つしかない。
「それです。その、奴らが言う、『正常』って何ですか? 異常そのものの奴らが、どんな道理を以って、『正常』を名乗るんですか?!」
 とても、何かを維持する所か、何かを破壊する為の部隊なのではないかと思わせるほどの、暴力性と嗜虐性。
 そんな、X1の質問に対し。Y1は一言で答えてみせた。
「『異常』だからこそ、『正常』の輪郭を認識でき、守護出来る。政府や軍隊、警察と、本質は一緒ですよ、X1さん」

 甲物件の窓を隣家の室内から見ている人物が一人。Z1だ。
 レーザー式盗聴器で窓に当たった音波を拾い、室内の話し声を傍受する。
「途切れ途切れですが、良好ですね。……遂に『VIAS』の名知りましたか、『X1』さん。それはいい。それは問題無い。でも?」
 話の内容は彼ら『観隊VIAS』の簡単な説明だ。しかし、その説明には問題がある。
「その説明をする人物に問題がある。適任など、ほぼ居よう筈も無いのは道理ですが、『彼女』がそれをするというのが、何とも破滅的だ。なら、やはり適材適所だった、ということですか」
 Z1の設置した盗聴器から出た音声ケーブルは、彼のヘッドセットとさらに奥の部屋へと延びている。
「運命的だったとは、言いたくもないですが。少しくらいの疑問は持ってもいい頃ですよ? X1さん……」
 一人で呟くZ1。そして、以前の部下に電話を掛ける。常時『優先』状態の回線を通じ、移動中の彼女、Z4へ。
 X1とY1の元へ送る、次なる段階を彼は始めていた。

「本質は一緒って……、さすがに理解できませんよ……」
 X1は、流石にY1の言い過ぎだと思った。
「警察も、軍隊も、ちゃんとルールを守って動いてる。『バイアスアイツ』らみたいに、雑に『力』を行使したりしない!」
 頭に血が上ってしまい、決してその対象であるはずがないY1に怒りをぶつけてしまうX1。しかし、それでもY1はX1の言葉を受け止めてくれる。
「『観隊VIAS』に対してはルールが無用なだけです。警察は法律に則って犯罪者を取り締まる能力が無ければ、『意味が無い』。軍隊はあらゆる国体の最終的危機に対処出来なければ、『意味が無い』」
「それは……、そうです……そうでなくては困ります」
「そして、『観隊VIAS』はそんな平常のルールを理解しながらも、ルールを超越した視界を持ち得なければ――『意味が無い』。そう。同じように人類が設定したルールの限界を超える『現実の発生』に対抗するためには、そうする必要があったんです」
「ルールを、超越した現実。想定外……」
「普通の倫理の範囲で戦っていたら、手遅れになるような敵を想定した戦力ってことです」
 バイアスが敵対する専らの敵とは、主義主張の無い単純な文明破壊行為。戦争の形ですらない自滅的な暴発である。とY1は説明する。
「例えば、映画でよくある人類滅亡シナリオの抑止とかですね。国のトップが暴走して核のスイッチ押しちゃうとか」
「本当に起こるんですか、そんなことが――」
「起こってないってことは、かつて止められてきたって事かもしれませんよ?」
「まあ……かもしれないですけど。そんな核のスイッチを握った敵と戦うなら、『普通』の力では対処出来ないかもですよね……」
 終末戦争レベルへの対応をイメージするなら、確かにX1にも『異常の特権』が必要とされるのが分かる気がする。気がしただけだが。
「そうです。元来、脅威となる凶悪な現象の対処をしようとすればするほど、戦力に求められる『例外』、言い換えれば『異常』は多くなります。警察なら『法律違反を取り締まる』ために『武器を所持して良い』特権。軍隊なら『国を守るため』に『軍事力として運営して良い』特権。そして、その極地が『観隊』に求められた、『人類が文明を維持するため』になら『何をしてもいい』特権……です」
「……そういう意味で、違いが無いと……Y1さんは、最初に説明したんですね……」
「逆に言うなら、彼らが警察や軍隊と違うのは、『第六の正常』が『バイアス』の力の形を定めなかったことに在ります」
「力のカタチを、定めなかった? 『何でも有り』っていうアレですか」
「そうです。例えば、警察には特定の条件下に於いて有形力の行使が認められています。犯人が逃走したりする時とかなら、客観的に妥当な範囲で犯人を物理的に停止させようと試みます。警棒とか、手錠とか、拳銃とか。定められた、分かりやすい形をした『力』で」
 それは容易にイメージできる警察、警官の姿。制御された『力』の行使によって、ある程度までの問題に対応する。『暴力』への抑止力。
「しかし『バイアス』には、それが当てはまらない。条件ではなく、客観性の無い、『形の無い力』の行使。理解不能で『無条件の何でも有り』。その力の行使を、大元の『第六の正常』は『バイアス』に認めた。終末シナリオへの対抗策、抑止『力』として。そして、そんな『力』を彼らは『聖告』を使ってび、そんな力の行使者を『観』と呼ぶんです」
 続けて論理を語るY1にX1は俯くしかない。けれど、そんな現実離れした論理に納得しがたい部分が多々あるのは否めない。
 そんな、X1の心中を察したのか、Y1はX1に優しく告げる。
「その存在を納得できないのは当然です。『常識』では理解できないものを『異常』と呼ぶのですから。ですが人類を守るには、人類の作った現在のルールは、あまりにも脆弱だったのです。だから、必要とされるんです。強力な『例外』が。時代を経ても、形を変え、何度でも。いつか『完璧なルールシステム』が完成する、その時までは」
 そうして、Y1の説明が一区切りついた。一度湧いてしまった怒りもどうにか治まり、X1は冷静に話をする態勢には戻れた。
 しかし、苦しい。安定していたかに見えた『現実』が、空虚なものに見えてくる。そんな、砂上の楼閣の上に成り立っているとでも言うのか、この『世界』が。
 理解できる訳が無い。出来なくて当然。する必要もない。
 でも、『観隊』の存在は、確かだった。
 だから、X1の胸は、こんなにも苦しみを訴えているのだ。

「大、丈夫。ですか? X1さん。ちょっと、一休みしますか?」
「いえ、続けてください。大切なことを、教えてください。これからの俺達の未来のために」
「ええ。……未来、誰もが望む、いい言葉ですね。――分かりました、続けます」
 そこからはさらなるY1による説明が続く。全てを理解するなんてことはまるでX1には無理だったが、確かにY1は大切なことを教えてくれた。
 先ずは『観隊』の隊員の特徴。彼らの『力』の基本的な傾向。そして、何故自分達が『バイアス』に付け狙われているのかの理由。
 その内容は驚くべきもので、X1はどっと疲弊してしまう。あわよくばこれら『バイアス』に関する事態と自分は関係ないのではと思っていた自分が居たことが、酷く不快な程の理由だった。
 どうすることも出来ない過去。しかし、X1はそんな過去を飲み込むことを決心するのだった。

 話の終わりに、X1は大切な質問をする。
「……最後に聞きたいです。俺は昨日までの数日間。Y1さんがZ1アイツに囚われていると思っていたんです。でも『優先法務局』に現れた時のY1さんは、そんな感じじゃなかった。あの数日間、何があったんですか?」
 心配だった。心細かった。強がりと、X1の本心にこごる弱さが質問の形をとって彼の口からあふれる。
 そんなことを聞いて、もし、本当に酷い目に彼女が遭っていたのだとしたら、彼自身に何が出来るだろう。どんな手段を取れるというのだろう。
 だが、聞かずに済ませるのは、収まりが付かない。そう、この疑問解消は、本当の自己満足。ただ、何もなかった、と言って貰いたいだけの、反吐ヘドだ。

「まあ、お察しかも知れませんが。Z1は、私の昔の知り合い達の知り合いみたいなモノです。当分の間、昔の知り合いの皆に会っていなかったから、Z1から顔を出しなさいと言われてしまいましてね。挨拶をしていたんです」
 分かり易過ぎる嘘。でも、ここまで話してくれた彼女が本当に隠す事。本当に話せないことを、ちゃんとX1に分かるよう明示してくれたことが、彼女なりの、弱いX1に対する慈しみなのだと。
 彼は、そう、感じ取る。
「……、分かりました。きっと、俺が止めてどうなるもんじゃないんですよね。この前だって強引に連れて行かれたんですから。でも、俺はZ1に『彼女を取り戻したいなら条件がある』みたいな話をされて、それで心配していたんです。それだけは、伝えたくて」
「そんなことになっていたんですね。重ね重ね申し訳ありません……。Z1は狡猾で読み切れない男です。何をしてくるか分からない。彼自身を警戒するだけじゃない。彼の用意する状況そのものに、注意してください」

 そこで、X1は再び大事な事を思い出す。
「アッ……そうだ、隣の家に、Z1が越して来たんでした!!」
「え、ええっ……!!」
 いきなりの大声に驚くY1。
「Z1が隣に? それは由々しき事態ですね……」
 そうだった。Z1は隣に越して来たのだ。異常集団『バイアス』と隣人になるのだ。しかし、この突然な引越し劇についても疑問がある。
「それにしても……Z1はどうやって、G3さん達から家を乗っ取ったんだろう。もしかして力尽くで退去させられた?」
「金を渡したか、或いは元々Z1の根城だった可能性もあります」
「どういうことですか?」
 それは根底から覆す発想。だからこそ考えもしなかった可能性だった。
「隣に住んでいたG3、G4夫婦がそもそも偽装された家主で、Z1の手の者だった可能性です。それで、こうも簡単に家主の交代が起こった。心当たりはありませんでしたか?」
「いえ……今回のことがなければあまり交流もなかったご夫婦だったので」
「兎に角、可能性の話だけならあり得る展開です。Z1なら此れしき造作もないでしょう」
「そうなのか……」
 その時。
 X1の部屋に、インターホンの電子音が鳴り響いた。

 朝食を摂るのも忘れてY1の説明を聞いていたX1は、その音で我に返る。
 来客に対応するべくインターホンの機器に向かうX1だが、時期が時期であるためか、Y1も後から付いてくる。
「はい、どなたですか?」
 インターホンの受話器を取って、玄関外の人物に話しかけるX1。そうして帰ってきた返事は、X1が知らない若い女性の声だった。

「さて、どうX1様に挨拶したもんかなー?」
 甲物件の目の前まで歩いてきたZ4は、『バイアス』としての任務と私情の境界に悩む。
 相手はあのX1とY1。X1は常軌を逸した信奉で、夢幻の中からY1を判別する実績を持ち。Y1は筋金入りの狂人。この二人を同時に対処しなくてはならない、というのはいくら何でも不可能に思えたが。
「私の目的はX1とY1の恋愛関係の妨害。それだけ、それだけ……」
 そう自分に言い聞かせて、彼女は甲物件の四階にあるX1が住む部屋のインターホンを鳴らすのだった。
「はい、どなたですか?」
 X1の声がスピーカーを通して帰ってくる。
「えーっと、あのぅ、あたしZ4と申しまして。ここに入居したくて大家さんを訪ねに来ました。大家のX1さんですか?」

「そうです、私がX1です」
 X1はインターホンの受話器で玄関外の女性に応える。入居するために大家に直接? Y1以来だ。
 最近の女性の傾向なんだろうか、とX1は不思議に思いながら返事をした。
「あっ、よかった。実はですね、入居したい理由なんですが……」
 そこまで女性が言った所で。
 Y1が隣からスイッチを押し、インターホンの通話を切るのだった。
「エッ……?」
「すみません、X1さん。此処は私に任せて貰えますか?」
 X1はY1の目つきにぞくりとしながら、インターホンの受話器を置く。Y1の声音は尋常ではない。
「えっ? 珍しいですけど普通ですよね。Y1さん。何か、こう……怖いですよ?」
「これ、まずいです……。あと、普通は直接交渉しませんからね? 普通の人は。つまりこの人は異常者です」
「Y1さんに言われたくないな……。でも、そうですね」
 何か嫌な予感を感じたのだろう。Y1の声は微かに震えていた。
 その返答にX1は真面目に返す。
「まさか、『バイアス』……ですか?」
「はい。その通りです。……X1さん。さっき、『観隊』の呼び名にある番号には指標としての意味があると教えましたよね……」
「はい。聞きましたが……? もしかして、知っているんですか、もう、あの人の番号を」
 静かに頷くY1。その深刻そうな表情から、X1は嫌な予感がしていた。
「まさか、」「そのまさかです。いいですか?」
 X1は、先ほど彼女からされた説明を思い出す。数十分前に覚えたばかりの知識。まさかこんなに早く役立つとは思わない。
 その時のY1も同じように、話し始めたのだった。彼にとっても記憶に新しい、『書式の42観』を例に取り、今と同じ、真剣な表情で。

「いいですか? 昨日、X1さんが遭遇したのは、『書式の42観』。情報にまつわる権能けんのうを有する称号、――『書式』の系譜けいふならう『VIAS』の一人でした。『42』という番号は数字が大きい程、序列が低い隊員ということです」
 話し過ぎて喉が乾いたのか、コップで水を飲むY1。いざ解説されてしまえば、『バイアス』の命名規則は字面ほど複雑でもないらしい。
 つまるところ『書式の42観』という名称の意味とは、情報系能力競技の、ランキング42位の称号なんだな。とX1は理解した。
「そういう風に、考えればいいんですね……。それで、『42』は強い方ですか? 弱い方ですか?」
「環境や隊員になってからの年数にも依りますが、『42』は弱い方ですね。実力を認められた隊員の持つ番号ではないです」
 これには実際に『書式の42観』と相対したX1にとしては、沈痛な面持ちにならざるを得ない。
「そうですか。……ちゃんと怖かったですけどね……。あれで弱い方なんだ……」
 あれで下位メンバーなら。上位のメンバーになど、会いたくないというのが彼の感想だった。
「『バイアス』の能力の影響力は、例外を除けば、大体のモノが場所や状況に大きく左右されます。なんてったって、『正常化』する力ですので、元から『正常』な場所では強く現れにくいのです。だから、数字の大小はあくまで手強さの目安程度の認識に留めておいて下さい」
「分かりました」
 納得感と共に相槌を打つX1。ここまでの説明なら気分が落ち込みもしたものの、彼にもそう難しくなく受け止められる情報だった。だが、ここからが問題だったのだ。
「彼らはX1さんがご存じのように、『異常』な能力で目的を完遂します。力の種類はまちまちで、物理、精神、破壊、隠密など、その特性もそれぞれ隊員毎に別ベクトルです。しかし共通するのは、全員『何らかの意味』で手強いということです。数字が大きくても決して、油断しないで下さいね?」
 油断など、したくても出来ない。寧ろ、自分に油断できるほどに余裕があったらどんなに幸せだろうか、とX1は思う。しかし。
「それはその通りだと思います。しかし流石に『VIAS』の隊員でも、日の光にちじようの下では、ただの一般人と変わらないって事ですか?」
 彼らの活動箇所が『優先法務局』などの、限定された非日常的な場所に絞られるなら活路はある、と。少し気休めを期待したX1だったが、次のY1による説明で希望は打ち消された。
「概ねそうですが、一桁の連中にはそれが当たりません。彼らは、本物の『異常』。本来なら『正常化』で排除される側だった筈の、未知数。『常識の敵』。まさに『何が起こってもおかしくない』の体現者たちです。彼らは『場所』など選ばない。彼らがいる場所が、ことごとく『異常化』するのです」
 その説明を聞いた時、X1は思い出したのだった。あのZ1は――、奴は仲間に『何と呼ばれていた』のだったか。
 X1は心臓が凍る思いをしたのだった。

 そしてまた、彼の心臓は二回目の凍結に晒される。
 直前にY1が発した言葉を理解出来ずにいるのに、X1はその言葉を聞き直すのに躊躇する。
 今まさに、扉を挟んだ外で待たせている女性の事を、Y1は説明したのだったか?
「Y1さん。今、あのZ4って人のこと、何て呼びました……?」
 X1の不安げな質問に、Y1は一呼吸置いて答える。それはX1にとって、耳を塞ぎたくなるような答えだった。
「もう一度よく聞いて下さい? 彼女は、『亡失の7観』と呼ばれる人物。一桁ナンバーの『バイアスVIAS』。隊の精鋭です」
 その言葉の意味を飲み込むために、彼の口は慌ただしく動く。
「え? だって、名前、Z4って……42観は……、あっ、Z1がいたか。でも、まさか、え?」
 支離滅裂な、文章にもならない断片がX1の口から洩れる。そしてやっと彼の頭は、再起動を始めた。
「……と、いうことは、この扉を開けたら……、こう、何が起こったか分からない内にこう……、あのZ4って人に『何でも有り』されるって、こと……?」
 冷静に考えてみて、その可能性は非常に高い。『書式の42観』にだって、思い返せば、つい先日『何でも有り』されたばかりなのだ。
「ええ。その可能性があります。なので、決して彼女の話を聞かないでください。ドアも開かないで」
「はい、了解です」
 そこからY1とX1の自宅籠城が始まる。先程、インターホン越しに対応してしまったこともあり在宅はバレている。今更居留守はできない。
 連続でインターホンが押され、玄関ドアのノブが何度か回される。鍵が掛かっているので開きはしないが、相手は『バイアス』。油断は禁物だった。
 室内の二人は、ピッキング的な技術で錠が開けられはしないかと、玄関ドアに近づき様子を見る。
「彼女は手先が器用ではないので多分開けられないでしょうが、合鍵を所持している可能性があります。警戒してください」
「ええ……。……何だか詳しいですね……。知り合いですか?」
「まあ、一応知り合いです」
「そうですか。……ひッ!」
 その時、玄関ドアが硬質な音を立て振動する。X1は『Z4』が外側から強くノックしたんだなと察する。
「知り合いじゃないでしょ! 親友! 友達!」
 続いて『Z4』の抗議の声が扉越しのくぐもった音で届く。
 友達。本当なのか? 確かめる必要があった。
「彼女ああ言ってますけど、Y1さん」「嘘ですよ、X1さん。あれが、『亡失の7観』の常套手段。ああやってフレンドリーを演じてコミュニティの中に忍び込むんです」
 平坦な声色でそういうY1発言は確かに尤もらしかったが、冗談にも聞こえる。
「そうなんだ、でも、無理が有りませんか?」
「そう! X1様の言う通り! 無理が有るよ! よいしょ……。えっと……そう、『Y1』!! 無茶苦茶言うな!!」
 X1の疑問を後押しするように、外から『Z4』による合いの手が入る。賑やかな人だな、とX1は感心した。
「こら、開けなさい!! 『Y1』!! 一昨日の事、怒ってるの?!」
 続けて『Z4』の抗議の声が響く。どうやらY1と因縁でもあるらしい。
 X1がY1に顔を向けると、彼女は『しーっ』と指を唇に当てていた。
「怒ってませんよー」
 一方、Y1は他人事のように答える。「嘘つけ! 顔が笑ってるじゃん!」
 言われてY1は少々笑み交じりだった、自身の頬を戻しながら言う。
「凄いですね、流石自称エスパー。扉越しに……表情が、……ん。まさか……」
「Y1さん?」
「やられましたね。無線です」
 そう言うと彼女は、Y1は扉に手を掛けたのだった。躊躇なく、さも危険など無いかのように。
「ま、待って下さい! Y1さん!」
「見ればわかります。ただの悪戯ですから。行きます!」
「うわああ、待ってくれない……」
 Y1はX1の制止も聞かず、鍵を開け、ドアを勢いよく開けていったのだった。
「やあっと、気づいたか」
 Y1が勢いよく開けたドアは、大きく外の視界を二人に明け渡したが、そこには誰の姿もない。
「これです」
 Y1は玄関扉の外側に両面テープで貼られた、受信機付きの簡素なスピーカーを剥がす。そこから『Z4』の声がしていたようだ。
「はあ……これ、誰からの受け売りですか? 扉を叩いたまではいいですが、詰めが甘いですし。全く酷い手品です。しかし、こんなものに騙されるとは」
「酷いのはそっちでしょうが! 話してる途中で、インターホンの通話切っちゃって。しかも玄関でいちゃつきやがって! 一昨日も私の仕事の邪魔したし! もう……」
 突然、それまで扉のスピーカーから聞こえていた声がX1とY1の背後から聞こえてくる。X1が驚いて。Y1が溜息をつきながら振り向くとそこには。
 不満げながらも腰に手を当て、してやったりな表情をしてこちらを見る人物。Z4を名乗る『亡失の7観』と呼ばれる女性がいたのだった。
 彼女は気分を害された様子で。しかしその表情には余裕をたたえていた。ただ、不気味なほど嬉しそうな目つきでこちらを眺めているのが気になる。
「粗雑ですね、『亡失の7観』。また窓からとは。前回、色仕掛けで失敗したのを引き摺っているんですか?」
「あ……あれは、色仕掛けじゃないし……」
 そんな『7観』の大袈裟なリアクションとは対照的に、Y1は余裕を持って返す。
「Y1さん! 今、家の中そこにいるのは……! え? でもいつの間に……」
「仕方がありません、こちらの負けです。X1さん、紹介しましょう」
 ここでまたX1が慌てだすが、諦めたようにY1が口を開く。
「彼女が『亡失』の系譜けいふならう、精神干渉系能力者の第7観。またの名を『分際提示ぶんざいていじ審判者しんぱんしや』。名誉ある似非エセエスパーである、『バイアス』の精鋭。『亡失の7観』です」
「どうもー。『Z4』と申しますー。よろしくー。……ん? 『エセ』?」
 X1の頭は、この複雑な状況の中、既に限界だった。

 Z4と名乗る女性は、いつの間にか室内に踏み込んでいて、X1の自宅廊下を踏みしめている。彼女はY1に対して余裕そうに、握手を求める。
 Y1の反応は苦々しいものだったが、面倒くさそうながらも彼女は律儀にそれに応じるのだった。
 その様子を見ながらX1は思う。
 ……あれ? もしかして、仲が良い?
「間違いなら申し訳ないんですけど、お二人って仲、いいんですか?」
 その質問をした瞬間、周囲の空気が凍り付いた。Y1が一瞬で無表情になり、Z4の表情が明るくなる。
 そして、再びこちらを向いて微笑んだY1は。
「そんな訳ないでしょう。彼女は敵ですよ、敵。出来ることなら、この場で絞め殺してますよ。でも、そんなことしたら逮捕されてここで暮らせなくなるので……」
「そうそう! 人殺しはいけないこと! ですよね? X1様……X1さん!」
「は……い、そうですね……」
 突然同意を求められ、動揺しつつも受け答えするX1。『バイアス』に対し危険なイメージを抱いている彼は、Z4の態度を率直には受け入れられない。
「あまり、Z4の話に乗せられないでくださいね?」
「で、最初の話に戻るんですけどー」
 Z4は、Y1を無視してX1に話しかける。
「え……何でしたっけ?」
 そう言えば彼女は何と言って訪ねて来たのだったか? X1はとんと忘れていた。
「ああッ、X1様酷い?! あたしの話忘れちゃうなんて。物忘れ? 記憶、『正常化』しちゃおうかな?」
「ヒイッ!!」
「『亡失の7観』!」「はいはい、彼女がお怒りで……。妬けちゃうね? お二人とも」
 おどけてみせるZ4を見て、X1は『正常化』という言葉に怯えながらも奇妙な違和感を覚えた。
 何かの良からぬ感覚。まるで……。
 Z4はY1を敢えて挑発しているような。していないような。しかし、会話を続けていくうちに、その違和感がますます膨らんでいく。
 Z4が何か言うたびにY1の眼光は鋭くなり、その場の空気全体が張りつめて行くのを感じる。
「……ここに住みたいと言ってましたね。Z1の依頼ですか」
「そう! 『Y1』、ちゃんと覚えててくれたね! でも、依頼が無くてもここに来てたかも! だって……」
 そこで言葉を切ったZ4は、勢いよくX1に抱き着くのだった。一瞬の出来事に、Y1も反応出来ずにいる。
「『X1』様のこと、大好きになっちゃったから!」
「……は?」
 抱き着かれたX1は、まだ状況も飲み込めず唖然とした顔をしていた。Y1も突然の事態に少し戸惑っている。彼女は平静を装いながら「またなんのつもりですか?」と言うが、困惑は隠せていない。

 X1はX1で自身の身体に密着する女性の体の感触に、別の意味で動揺していた。
「Z4……さん? 何で? え……なんで?」
 X1が動揺して、半ばパニック状態になると見るや、Z4は多少密着度を下げた。X1は緊張のためだろうか? 息が少し荒かった。一方、その様子を訝しむかのように目を細めているZ4はそのまま口を開くのだった。
「うーん。おかしいな……」
 Z4は何か困惑しているような反応をする。X1はZ4に抱き着かれて慌てるが、だからといって彼女を無理矢理引き剥がすには彼女の体にさらに触れなくてはならず、躊躇する。
「……この感じ……。やっぱりおかしい」確信したように、Z4はX1の身体から離れた。
「おかしいのは、貴女の方では?」Y1は怪訝な目でZ4を睨みつける。
「ん? うーん。まあ、いいか。で、住まわせてくれるの? 住んじゃいけないの? 満室なら、この部屋でもいいよ?」
「良い訳無いでしょう……」「それは、俺も困りますね。もう、困ってますけど」「X1さん?」「え。何でもないです……」
 X1とY1の反応を見て、Z4は溜息を付く。
「ふぅ……、そっかー。じゃあ、それってやっぱり住んじゃいけないってこと? まあ、空き部屋が有るのは分かっちゃってるんだけどね?」
「確かに、空き部屋はありますけど、住まわせるかどうかは俺の判断になります。本気で住むつもりなら、保証人を用意して頂くことになりますし……」
「ほ、保証人?」Z4は気まずそうな顔でY1の近くに寄ってくる。Y1はびっくりしながらも、何となく彼女が言いたいことが分かったようだ。
『ねえ、Y1。保証人って、何?』
 小声で聞いている様子だが、近くにいるX1には丸聞こえだ。何だか気が抜けてしまう。
「書いて字の如くですよ。貴女の信用がないから、埋め合わせる人間のことです」
「……真正面から言われると、ちょっとキツイね……」
 Z4は残念そうに肩を落としていた。だが、またすぐにY1の方を向いたかと思うと、笑顔を浮かべる。
「分かった。その『保証』を用意してもう一度会いに来ることにするよ!  あ、そうそう、最後に一言だけいいかな? 『Y1』?」
「……何ですか」
「これは、あなた達の為でもある」
「え?」「え?」
 Y1とX1の疑問の声。しかしそれを無視して、Z4はバイバイと手を振りながら去っていった。