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A Gloomy Part-Time Lord "X1" of a Rental Apartment Building

或る兼業大家"X1"の憂鬱

エピソード2

 『X1の気弱そうな顔を見て、この男はカモだと確信した』
 T1は初めて会ったX1に対し、単純にそういう感想を持った。
 結果的にそれが間違いであったとしても。最初に会った時の彼は、確かにT社の利益になるカモに過ぎなかったとT1は今でも確信している。
 それでも。あの時T1がミスを仕出かしたのだとしたら、それは――
 あの女の事を読み切れ無かった。それだけだろう。
 X1の隣に座っていたあの金髪の女。Y1というふわふわした頭の軽そうなあの女が。
 『俺の獲物を掻っ攫っていったんだ――』

 ――あとついでにX1も許さない。
プロローグ

 丙社の被害者の会の会合の日。今日は特別人が少ない。
 事ここにおいて丙社への対抗策はほぼ決まり。後は、一番重要なD6の役割が達成されるのを待つばかり。
 定期的に集まる意義が一時的に薄くなり。そうでなくても、メンバーはいつでも出席するものではない。
 それでも新入りとしての義務感もあり、X1は毎回欠かすことなく会合に参加していたのだが――。
「今は丙社と戦ってるけどねX1。悪い奴らって何処にでも居るものなんだよ?」
 と、体験談か伝聞か分かりにくい調子で毎回迷惑企業物語を聞かせてくれるD1には。
「そうなんですね……、たいへんだなあ」
 流石のX1も、少し引き気味の態度を取り始めていた。
 丙社とY1の事で頭が一杯のX1は、D1の話を適当に聞き流していた。
 X1の気持ちを知ってか知らずか、被害者の会のメンバーであるD1はまだ熱く語り続けている。
「このT社って所も結構曲者でね。奴らの手口は有名なんだけど、T社の社員の一人が熱意で押すのが上手いってタイプで。なんだかんだで一回は不利な条件の契約を結ばされちゃうんだってね!」
 熱意で押すのはD1さんもなんじゃ……、とX1は思ったものの黙っていた。
「気を付けてよ? X1君は騙されそうな顔を……、というか実際騙された張本人なんだ。こういうやからの手口を知っておいて損はないと思うな?」
 D1の言葉を聞きながら「確かに……」と思いつつ。X1は考えるような素振りを見せておく。正直彼は今警戒心マックス状態だ。
 もう騙されないぞ! と気を張っているくらいだ。二度目の心配をされるのは少々早過ぎないかと、怪訝な顔にもなる。
 そんな会話を交わした時には、X1はまさか自分がこんな役目を買って出る羽目になるとは思ってもいなかった――。
 丙社の件が一段落つく頃には、そんな話を忘れていたX1。しかし珍しくこんな自分に相談したいという人物が現れ。頼られる経験の薄いX1は、それを快諾。
 あれよあれよという間に話が進み。見慣れない玄関の聞き慣れないチャイムが鳴った音で、X1は自分が後戻りできない状態であることをやっとこさ実感した。

エピソード2 騙し打ちホットフィールド



 『この男はカモだ』
 そう思った瞬間から、T1はX1に対して執拗な勧誘を始めた。
 事の始まりは2002年10月。秋真っ盛りの過ごしやすい気候の中、T社から来たT1は前々から目を付けていた良い感じに古そうなアパートの主と、ついにコンタクトを取ることに成功した。
 築20年そこらの賃貸物件。そろそろガタが来始めて、古さが無視できなくなる頃合い。
 まさか、そこの主がつい先日名前を目にしたX1だとは。ツイてる、とT1は口元に手を当てる。
 現社長のT2が仕入れてくる最新の裏名簿。そこにこの幸薄そうなX1という男性は載っていた。
「こんにちは。T社賃貸管理部のT1と申します。お忙しいところ失礼しますが、お話ししてもよろしいでしょうか?」
 T1は、玄関先のX1に笑顔で名刺を差し出した。
「T社? どこの会社ですか?」
 X1は名刺を受け取りながら訊く。
「私どもの会社は、不動産売買や仲介そして賃貸管理をしております。お客様の賃貸経営をサポートするサービスを提供しております」
 T1はさらに笑顔を強調した。
「賃貸経営サポート……?」
 気弱で騙されやすい性格。書類にある通りの人物像。居間に通されY1という女性が淹れた茶を飲みながら、ああその通りだとT1は思った。
 自分でしておいてなんだが。アポ無し営業を招き入れる経営者はアホだ。
 この秘書なんだかお茶くみなのか恋人なのか分からない、べらべら喋るY1という女も同じ。
 信用すると決める前から相手に情報を与えすぎる。それは最早交渉ですらない。
 少しX1が席を外している間に、T1は築年数や部屋の空き状況の情報を、質問してもいない内に得られてしまった。
 Y1という女が言うには、X1は中堅不動産会社で契約社員として働くアフターマンだという。
 彼は、数カ月前に親戚から相続した古びたアパートを管理することになった。
 賃貸経営に関する知識も経験もなかったX1は、困惑しながらも何とかやっていこうと決意した。
 T1が来たのは、そんな時頃だったらしい。
「そうです。実は私どもは、この近辺で空室率が高い物件を一括借り上げして我が社による完全サポートにより高収益を実現するプロジェクトを行っております。その中で、この物件をお持ちの貴方様にお声がけをさせていただきました」
 T1は戻ってきたX1に、あらかじめ撮影しておいたX1の持つアパートの写真を見せた。
「この物件は立地も良く。魅力的なポテンシャルを秘めています。しかし現状では古くて汚れていて入居者が集まりませんよね? そこで私どもがお手伝いさせていただきます。私どもはこの物件を一括借り上げして、新しいテーマに沿ったコンセプト物件に変身させます。そうすれば需要が高まり家賃も上げられます。そしてその収益の一部を私どもにお支払いいただくという仕組みです」
「それはすごいですね……。でもリフォームにはお金がかかりますよね? 私にはそんな余裕はありません」
 X1は酷く困った顔をした。
「ご安心ください。私どもがリフォーム費用の全額を立て替えさせて頂きます。もちろん無利息で。そしてリフォーム後の物件が稼ぎ出したら、その収益から少しずつ返済していただくだけです。さらにこの建物の管理もお任せいただければと。私共は毎月決まった額の家賃をお支払いします。それなら負担にならないでしょう? つまり、貴方様には一切リスクがなくメリットだけがあるというわけです」
 T1はさらに笑顔を強調した。
「本当ですか?それなら……」X1は迷いながらも、T1が用意したメリットしか記載のない資料から目を離せない。
 『やった! やはりこの男はカモだ!』
 T1は心の中でガッツポーズをした。
 そうして彼は、次回までに物件の具体的な経営戦略と契約書を作成してくると約束して次の訪問の予約を取り付けた。
 帰り道。T1は最近買ったメモリーカード式携帯音楽プレーヤーの細長い液晶を小さなスイッチ類を弄りながら、この先の展開に思いをはせるのだった。

 T1が帰った後。静まり返った居間に、X1でもY1でもない人物が現れる。
 彼はこのアパートの真の家主D2。彼は家具の陰に隠れ様子を窺っていたのだ。
「ど……どうでしたか? 彼はT社は信用できそうですか?」
 D2は恐る恐るといった様子でX1とY1に意見を求める。
「駄目ですね。彼は目利きが出来ません。完全に素人です。嘘の築年数に疑いを持った様子がありませんでした」
 先に話し出したのはY1。そこにX1が続く。
「空き部屋の数もです。一見すればカーテンや洗濯物の有無で、この物件の空室率はもう少し低いことが分かるでしょう。でも、この盛った空室率の数字を見た後、彼は帰り際それを再確認もせず去りました」
 それに、とY1がさらに引き取る。
「あとこの部屋の家具食器構成は、明らかに住人が一人住まいであることを示しています。しかも50歳位の年齢層の。そこに」
「そこに気づき始めたらもう探偵ですよY1さん。……とにかくそういう事です。噂通りですねT社は」
 最後にX1が話をまとめた。聞いていたD2はがっかりして肩を落とす。
「あれ……? 怪しい業者が予め分かってここはホッとする所では?」
 力なく座り込んでしまったD2を見て、X1が眉をひそめるがD2の表情は晴れない。
「違うんだ。ウチと同じで賃貸やってる友達がな。あのT1のせいで契約してしまっていたんだ。T社あそこと」
「えッ、それは……」
 X1とY1の二人は思い至る。このD2が自分達に、こんな狂言を頼んで来た時の事を。
 『あの裁判』すら、これから立ちはだかっていく災難。その予兆に過ぎなかったのではないかという感覚。
 X1とY1が、D2の助けになろうとして行った行為すら。
 T1に教えた築年数の倍の年数を誇るボロアパートの家主であるD2に対して、ただひたすらに不安を植え付けるだけだったのかもしれないと。
 そう、X1は感じざるを得なかった。

 T1は、T社オフィスの裏口からそっと帰ってくる。いつもT社の現社長であるT2は、ここに居ないことが多いが。
 それでも心の準備がないタイミングで彼に会いたくないT1は、この時間のこの場所から帰ってくるのが習慣になっていた。
「お帰りなさい、T1兄さん! 今日の子とはお友達になれそう?」「おう。さっきの子は卓球部の子だった。紹介するよ。X1って子なんだけど……」
 妙な単語が二人の間で飛び交うが、勿論この会話は社内の裏切者対策用の暗号だ。盗聴や録音を防ぐ目的がある。
 話し相手であるこのT社の社員も決して、T1の弟や兄弟の契りを交わした仲ではない。
 T社はアットホームな職場環境を目指しているので、このような呼び名を徹底しているのだ。
 世間でも悪名高い詐欺企業であるT社は、時と共に自身の発する闇に反発するかのように内側へ仮初の光を求め。
 いつの間にか、このような内輪ノリの家族観を演出するまでになった。
 卓球部というのも、顧客の性格を暗示する表現である。顧客一人一人を分析し、的確な部活動名を与えている。
 そんな風習に、このT1も巻き込まれてしまっていた。昔はこのような会社ではなかったのだが。
「……もうすぐT2お義父さんが来るって。兄さんは今日は顔見せないんでしょ?」「そうだな。暫く裏に引きこもらせて貰うよ」
 T1は仲が良い弟分の社員の忠告に従い。倉庫の隙間に拵えた即席の作業場で、身を隠しながらこれからの戦略を練る。T社の利益のために。そして、それによって得られる自身の望みのために。

 X1とY1がD2の物件で一芝居打った二日後。X1とY1の二人は、D2の自宅で彼が持ってきた、T社との契約関連書類を確認していた。
 この書類は、D2の友人であるというT社の被害者男性の自宅からD2が持ってきたものだ。
 この日の午後、この部屋にT1が来るという連絡を受け、事前に待機している間に被害者の男性から詳しい話を聞こうという算段だったが。
 しかし、到着が遅れているのか男性の姿は無い。
 代わりに語り始めたD2から話を聞くと、このT社による被害は、被害者男性自身にも問題の切り分けが難しかったらしい。
 賃貸住宅管理業者というのは、現状規制が緩く物件所有者側の立場が弱い。
 不当を訴えても、法的には特に問題がないとされている事例も多いそうだ。
 どんなに営業マンが美味い構想を持ってきても、時が経てば建物は劣化するし競合は増える。
 時代にそぐわないデザインを金を掛けて変更していくのが精々だ。しかし、そんな場当たり的な対処にも築年数という限界がある。
 結局は時間と金の無駄。話は『営業マンの言う事を鵜飲みにするのが間違い』で終わってしまう。
 ここまで書類を読み込んでいたY1によると、先ず内容に大した不備はないらしい。その理解の上で、書類の感想をY1は口にしていく。
「まず中途解約の賠償金がエライ額になっています。一応管理事務については連絡義務など立派に書かれていますが、実際に適切に管理されているかは疑問です。このケースですと家主は建物に住んでいないので、気づかぬ内に駐車場や共用部分が居住者や部外者のやりたい放題の無法地帯になっていた可能性があります」
 そしてそれは実際にそうだったらしく、X1は息を飲む。管理を任せてからたった五年の時点で、酷い有様になっていたのだったのだと。
「借り上げから20年の家賃保証なのもお察しですが。借地借家法を理由に、既に家賃が何度も減額されてるそうで……。これに関しては救えませんね」
 保証とは一体何なのか。Y1の言葉を、ただただ聞き入るX1は未知の世界に突入した錯覚を覚える。
「ツッコミどころが有るとすれば、減額のし過ぎを不当として争うか。家主さんが賃借人とのやり取りを任せっきりだったせいで、七年も掛かってやっと気づいたらしい仲介手数料の宅建業法46条による規定値オーバー。これしかないですね」
 少ないが対抗手段があるらしい事に、胸をなでおろすX1。しかし、友達の危機を救えるかもしれないというのにD2の表情は晴れない。
 彼は俯いた姿勢のまま、ぽつぽつと隠していた心情を吐露するのだった。
「いやもう裁判で争うとかそういうのは良いんだ。君達に芝居を頼んでT1を誘い出してもらったのも、実際はダチを追い詰めた奴の顔を拝んでおきたかっただけなんだ……。T1は霞みたいな奴で、T社にクレームで呼び出しても『当社にはそのような名前の社員はおりません』の一点張りとかで、目星を付けたカモ相手でないと姿を見せない謎の男だったんだ。だから俺は奴の顔くらい目に焼き付けておきたかった!」
 そういうD2は肩を震わせている。T1やT社への怒りだろうか。それだけでもX1には、彼が言いたいことが伝わってくる。
 今日の集合で、その友達本人が来ていないことをX1も薄々不審に思わないでもなかった。
 書類もD2が持ってきたもの。まさか、とX1は自身の鼓動が早まるのを抑えられない。
 だがD2は顔を上げてX1の目を見ると、僅かに窪んだ瞳でX1に落ち着くように言った。
「ああ……、決して自殺とかじゃないんだ。ただ交通事故で、他人ひとりを撥ねた挙句自分も建物に突っ込んで頭を打っちまってそれまでだった。そういう話さ。でも、その時アイツはT社に任せてた物件の視察から帰る途中だった……。悲惨な状況をまた目の当たりにした直後だったんだろう。遣る瀬無いんだ。俺は」
 そこからD2の声には嗚咽が混じり始める。その辛く圧しかかるような重圧に、X1はこれから気楽な気持ちで此処に来るだろうT1をどうしようもなく憎々しく思った。

 その日はさらに、自信満々としたT1の賃貸経営戦略を長々と聞かされた挙句。付き添いの宅地建物取引士を名乗る男性にと共に、X1はしつこく契約を迫られることになっていた。
 Y1は傲慢な客人にお茶を出しながら、目ざとく彼らが持ってきた契約書と重要事項説明書の内容を把握する。
 契約書の特記欄にはこう書いてある。『乙が媒介した借主との成約時乙は甲と借主に合計で賃料の3ヶ月と同額の仲介手数料を請求できる。』
 契約書と大っぴらに矛盾する重要事項説明書。それを物珍し気に眺る彼女は、初めてこのような書類を見る振りをする。
 そして、この異常な一文を横目に。――宅地建物取引業法第35条違反。まずは一つ。――とほくそ笑む。
 T社は過去の詐欺的行為で上手く行き過ぎたせいて、年々手段が杜撰になっているようだ。とY1は書類で表情を隠しながら考える。
 これは仲介手数料の取り過ぎによる宅建業法第46条違反なんてものじゃない。T1が提案しているのは、一棟借り上げのサブリース契約のはず。
 それはT社自体が貸主となる契約であって、通常の不動産業者が得るような借主と物件所有者間の橋渡しの対価である仲介手数料が発生する訳がないのだ。
 それに気付きつつ、Y1はニコニコの表情を作りその場はこの大問題を見送る。瑕疵を突きはしない。そうしたら彼らは不正の証拠を持って帰ってしまうだろう。
 今は自分らの演技が、T1や宅地建物取引士を名乗る男に気づかれないようにすることが先決だった。すると正面から彼女に声がかかる。
「この書類に書かれているのは形式的な些細な文言だけなので、ちゃんとご自宅に保管しておけば大丈夫ですよ。大切なのは、こちらの契約書の内容ですからね?」
 重要事項説明書で視線を遮っていたY1に、白々しい口調で鉛の釘を刺すのはT1だ。少々都合が悪いのか、重要事項説明書は机の隅に追いやられ契約書が壇上のセンターの振る舞い。
 先程Y1が注目した異常な一文も、『当社が末永くお客様と歩むための僅かながらのご負担です。通常仲介手数料の大半は借主様がお支払いになりますので、X1様への請求分は大した額にはならないとお約束します』とかいう無責任な口車で流される。
 自身も後ろ暗い契約の一つ二つを取ってきたY1ですら、これには大笑いを堪えるので必死になる。
 演技する側であるX1も、敵であるはずのT1の言葉と雰囲気に不覚にも一瞬本気で頷いてしまったりする辺り危なっかしくて微笑ましい。
 しかし、もう十分だと感じたY1は時計に目を向けながら取って置きの切り上げ用文言を放つ。
「あら……そろそろ子供を幼稚園に迎えに行く時間ね。X1さんそろそろ……」
 ハッとした声から隣のX1に囁くような仕草に切り替える演技で、Y1はその場の男性陣の不意を突く。そしてY1は、T1らを急流の如く「契約はまた後日」の一言で帰路へ押し流し玄関扉をバタンと閉めた。
 そして今回も家具の中に長時間隠れる羽目になっていた、D2を解放するのだった。
 
 D2の持ち物件から自宅へ帰り際、X1はY1から突然された提案に赤信号を無視してしまいそうになる。
「え……、そんな事可能なんですか……? き、危険なんじゃ……」
 しかし、X1は驚き落ち着いた表情のY1に襟を掴まれ歩道に戻された。
「X1さんも納得できないのでしょ? 私思うんです。あのT1という男……やっぱりおかしい。やり口が強引すぎる。T社の不正を掘り出すならあの男がアテになります」
 T1の名を出されてしまったらX1も弱い。憎きT1を利用し、悪の権化であるT社の弱みを掴めるなら。そんな一挙両得なことはない。
「分かりました。俺はもう一度T1に会って、奴を足止めしていればいいんですね?」
「ええ。お願いします」
 二人は帰り道を遠回りし、計画に必要な品を揃えるのだった。

 数日後。この日のT社では給湯ポットのお湯を使った社員が眠気を訴えるという事態が続出し、飲めば飲む程眠くなる備え付けの不味いコーヒーが品切れし。
 さらには普段とは違いT1が正面入り口から入ってくるなど、世にも珍しい状況が見られた。
 今日も社長のくせに怖がりのT2お義父さんは出社してこない。眠い目を擦るT社社員達は、そんなどうでもいいことに思考を巡らせていた。
「T1兄ちゃん……ふあぁ……珍しいね。こそこそしないなんて。そろそろ僕達のパパになってくれる気になったの? むにゃむにゃ……」
「……んんん。今日はそんな気分だったんだ。パパになるのは……ああ考えておくよ……」
 普段と違うT1の様子に社員達は、彼に変化を期待をしながら続々と深い眠りに落ちていく。
 そんな奇妙な状況には仕掛人であるはずの彼女自身が一番驚愕していた。声色を女性のモノに直し彼女は呟く。
「この会社は思った以上に狂ってますね。さっきの人も寝ぼけてただけだと思いたいですが、素面でも彼ら家族面してきましたし」
 それ以上に彼女――、Y1が驚いたのが、T1の社員証を複製できず、タイムカードも仕様に手間取るリスクがあるが故に無視したというのに。誰一人としてそのことに違和感を持つ社員がいなかったことだ。
 そう現在Y1はT社にT1として潜入中。彼女は完璧にT1に変装し、内部文書を入手すべく彼らを騙している最中だった。
 彼女はどう考えても社員監視用である監視カメラを意識しないようにし。指紋毛髪を残さぬよう注意しつつ、彼女以外の全員が入眠中のオフィスをさり気なく物色する。
「当然不正の証拠をその辺にほっぽりだしている訳無いですよね……。まあいいです。貰えるものは貰いましょう」
 証拠にはならないが、役に立ちそうな情報を含む書類なら容赦なくコピー機を使い複製しては着服していく。
「鍵付きの場所を探るのは怪し過ぎますし、ピッキングにも時間がかかる。そろそろ時間を使うのは、T1のデスクに絞った方が良いですね」
 そして次はT1のデスクを探し始めるが、それらしいものが無い。予想では彼は成績の良い営業の筈だが、やはりデスクそのものが無い。
「どういうことでしょう……。これではまるで……!! 人が来る!?」
 こちらに来る人の気配を察したY1。だがT1の変装をしていても、社員全員が寝ている所に一人だけ起きている社員がいるのは怪しまれると判断し、彼女は倉庫に隠れる。
 そこに現れたのは社長であるT2だった。彼はオフィスを一目見た瞬間、ガタガタ震えだす。
 まるで恐怖映像でも見たかのようなリアクションだ。すぐに彼はオフィスを飛び出していったが、いつ戻ってきてもおかしくないと考えたY1は。
 扉一枚で隔てられた倉庫も物色しつつ、様子を見るのだった。
 結果から言えば、これが大当たり。倉庫の奥に謎の作業スペースがあり、そこに契約書と重要事項説明書等々の不正の証拠になる書類十年分が溜まっていた。Y1はそれをそっくりそのまま有難く頂戴しながら、オフィスを後にしようとする。
 そこで気を取り直してオフィスに入ってきたT2に、ばったり出くわしたのだった。
「社長……いや何て呼べば? ああここはアットホームな会社だった。T2こんにちは! こんなかんじか?!」
 突然現れたT2に、Y1は対応に混乱を極めて思考が全部口に出てしまっていた。しまった。と思うが後の祭り。しかしT2の様子がおかしい。
「その姿やはりお前なのか……? もう私の前に現れるな!! いやあああああ消えてくれ!!!」
 喚き散らし、自分より混乱しているT2の姿にY1は少し冷静になる。T1はきっとそう、今朝辺りに彼に何かとんでもないことをしたに違いなかった。
「T2、済まなかった。こんなつもりじゃなかったんだ。また来るよ。その時までには少し落ち着いていてくれると嬉しい」
 一度始めてしまった演技の止め時を失い、Y1は正しいかも不明なT1を演じながら、オフィスを退出しようとする。
 しかし、背後でゴルフクラブを構えるT2を目にした以上、Y1が悠長にその場を離れる理由は失われた。
「また来る!!?? また来るだと?! 忘れたか! お前はもうあの交通事故で死んだんだ!! 今は俺が社長だ! お前に居場所はない!! 消えろと言ってる! この亡霊がああああああ!!」
 Y1は振り下ろされるゴルフクラブを避けながら、社長の怒声に叩き起こされた社員達を盾にしつつ人に紛れて裏口から脱出した。
 すぐに変装を解きながら、公園の女性用トイレに駆け込み様子を伺う。
 T2やT社の社員達が終ぞ、追ってくる様子は無かった。

 翌日、X1とY1はD2と共に内部文章の情報を根拠に、非通知でT社に電話を掛け。東京都の不動産業課に通告すると脅す。
 すると、怯えた様子の数人の社員を経て電話口に出たT2は、あっさりと今回の重要事項説明書に関する記載の怠り、契約書に手数料に関して不当な金額を記載させたことを含め。今まで積み重ねてきた様々な不正行為を認めた。
 さらに口頭とはいえ、被害の申請があればその保証をすると約束した。
 しかし、その声の震え方はもはや尋常のモノではなかった。
「許して許してください……これでもう許してくれる? もう許して……。アイツ笑ってた。ダメだ火火で殺そう。死因の火で。これで俺たすけ」
 そこで受話器から大きく硬質な音がして声が途切れた。

 電話口のX1と横で聞いていたY1だけが騒然とした表情で沈黙する中、T社が不正を認めたという話だけを聞いていたD2は、これで少しは死んだ友の弔いになると嬉し泣きをしていた。
 彼は驚きで互いに顔を見合わせる二人に構わず、感謝の祝杯を挙げこの勝利を祝っていた。

 数時間後、T社の社屋から出火したという報道がメディアから流れ始める。
 消防車や救急車の出動も空しくビルは全焼。中に居た人間も半数が死亡した。
 その中にはあの現T社社長――、T2も含まれていた。
 出火の原因は倉庫への放火とみられている。

 その報道をX1は見て思う。自分たちは無責任に首を突っ込み過ぎたのではないかと。
 自分は最近の事件続きで善悪や清濁の基準が曖昧になっている。それは確かだと。
 X1は今こそ日常を取り戻す時だと心に今回の事件を留める。
 争い事から一時離れ、賃貸経営や本業のアフターマン業務に精を出す時なのだ。
 顔も知らぬT2。T社のエースだったであろうT1。彼らのことをX1は忘れない。
 今彼に出来る唯一の贖罪は結局それだけなのだから。

 エピソード2 エピローグ

 T1は笑いが止まらなかった。あの怯え切ったT2の顔。
 数年掛かりで貯めに溜めた自ら作った部分も大きい不正の証拠の盗難が全く気にならなくなるほど、あの顔は傑作だった。
 T1の顔は彼の父親に瓜二つだ。意図的に雰囲気を寄せてもいて、T2には効果覿面だ。
 今までも不意にT2と遭遇した時は見て見ぬ振りで誤魔化されてきたが、今日は違った。
 はっきりと自分を認識していた。と、T1は両手を挙げて勝ち誇る。
 そしてわざわざ彼の携帯電話に掛けてやったのだ。自分の父親の携帯電話で。死んだT2の親友の電話番号で。亡霊の声で呼びかけてやった――!!
「お前のせいだ。お前が俺の愛するT社を汚した。こんな穢れた手口で得る利益を俺は望んでいない。お前は社長の器ではない。今からお前を連れていく――。一緒に行こう――」
 それでも。ほんの脅しのつもりだったのに。
 あのデブ……皆を巻き添えにして……!!
 最後に掛かっていた電話がきっかけに違いない。
 生き残った軽症の社員に訊いたら電話の相手は若い男と女の組み合わせだと言う。
 間違いなくあいつらだ。
 X1とY1。
 X1は後だ。底が知れている。しかしY1……、彼女については完全に読み違えた。
 あのX1の隣で座っていたふわふわした頭の軽そうなあの女が。
 勝手にT2に止めを刺し――。
 俺の獲物を掻っ攫っていったんだ――。