A Gloomy Part-Time Lord "X1" of a Rental Apartment Building
或る兼業大家"X1"の憂鬱
エピソード3
プロローグ
「うわっ……降ってきたか……」
突然の大雨に、X1は大急ぎで傘をさす。天気予報より少し早い降雨。
傘を持ってきていて良かった。「はあ……」と、X1は大きくため息をついた。
彼の居る場所は、とある分譲マンションの屋上。そこに彼は本業のアフターマン業務で来ていた。
何時も通りのの厄介仕事。この分譲マンションの最上階では、漏水による問題が起きていた。
その漏れてくる水は、水質的にクラック(外壁のひび割れ)から侵入する水であることは間違いないのだが。
長期に渡って見分されつくしているらしい屋上の壁面は、見る限り怪しい場所ばかり。
だがそれらは全て、二人目の前任者によって検証されている上。床面に斑に散る灰色の応急処置用シール材は二人目の前任者である彼、M3によるものらしい。
M3から引き継がれた資料には、この場所からは簡単に見えない壁面部分にもクラックがあり、それらは調査済みと記されている。
これらは元から致命的な裂け目ではなかったということだ。X1は何処が原因のクラックか、判断に困る。
この資料は一人目の前任者M2と、M3の共同作成となっていた。
まだ雨が降っている。依頼者である最上階の部屋の所有者の姿をX1は思う。あえて自分が顔色を伺うまでも無い。彼女は凹んでいるのだろう。
眺めのいい屋上だが、こうも連日の雨では景色どころではない。
『どうせ今日もまた曇って何も見えないですよ……』
職場の同僚のM4が苦笑しながら出発前に言っていたのを思い出す。
おかしな助言だった。X1がここに来た目的は天気の確認のためじゃないはずだ。
だが、不吉さを表現するなら、こうも嫌な捨て台詞もあるまいと、X1は自身の連想を振り払う。
M4が意地の悪い言い方をする理由に、X1は察しが付くからだ。
X1は思考から戻り、ここにいても仕方ないか、と。
「じゃぁそろそろ行きましょうか」と一人言って雨降る屋上を立ち去る。
そして、行きには『見ればわかるでしょ』と、すげない対応をしてきた最上階の所有者に話を聞きに戻るのだ。
結局は、彼女の部屋の天井も見なければならない。それをするなら、雨が降る、今が好機なのだから。
エピソード3 漏出する匣
湿気た空気を奏でるように滴り落ちる水滴が、この分譲マンションの共用廊下に冷たい飛沫を放つ。
X1が階段から屋上直下の12階に降りてくると、そこには二人目の前任者、M3がいた。
「お疲れ、ってほどでもないか。雨が降ってきたからって、のこのこ退散か?」
普段の真面目そうな人事受けのいい顔に、要らない笑みを張り付けた男、M3。
彼がこのような言い方をする人間だとは、X1は最近まで知らなかった。
「もう一つの現場を見る機会だと、思っただけですよ」と、X1は言い返す。
だが、M3は同じ笑みのまま、言葉を続けてきた。
「すぐに来たって、天井まで染みてくるのはもうちょい後さ。女性の部屋に長居するつもりか?」
「そういうつもりじゃないですが……」
X1は否定するが、その声色はどこか弱々しかった。M3の言うことは乱暴だが正論だった。
しかし、そんな彼はやはり尊敬できる人物などでは決してない。
今回の引継ぎ業務で、重要な現場である屋上にM3が同行しなかった理由が『濡れるの嫌いだから』だったりするのだ。
結果降られたのだから、雨に対する直感はあるのだろうが――とX1は憎々しく感じていた。
ふと横目に、控えめな音と共に昇ってきたエレベーターから、M4が出て来るのに気づく二人。
ああ、彼も追って来るんだったか? X1は思い出そうとした。
「おっと来たね。じゃぁ、俺はこれで。挨拶も済んだし、短期間に2回も引継ぎするほど俺も酔狂じゃないんでね。後は、M4君に任せるよ。悪いな、M4君!」
「はい……」
小さく聞こえる声は、M4のモノだ。彼は、M3に気まずそうに応えた。
「まあ、頑張ってくれや」「はい……でも」
M4の声はか細く消えていく。彼の視線の先には、X1の姿があった。M4は、X1を睨んでいた。
「何でお前みたいなのが……」
出発前に話した時とは違う、緊張感。その様子から、先程M4は急にM3から代わりに引継ぎをするよう頼まれたのだと、X1は察する。
気まずい雰囲気を済ませるように、X1が先に口を開いた。
「これから、居住者さんのお部屋を見に行きます……あの、……行きましょう」
「……私も、初めて見ます……」「え?」
行き掛けに、追いついてきたM4の言葉はX1には意外で。
「えっと、まだ……だったんですか」
X1はつい、彼から目を逸らしてしまう。
「もう、水滴、垂れてくる頃ですよ」「あ、はい……そうですね」
M4の促しもあって。彼らは、横並びを嫌うようにギクシャクと、漏水被害を受けたこの階の角部屋に向かったのだった。
「何度見ても、一緒ですよ……」
不機嫌そうな、低い声で喋るこの女性は、この分譲マンションにおける漏水問題の唯一の被害者だった。
一見綺麗にされている室内だが、どこか不快な湿気と、紛れ込む生乾きのような匂いを隠しきれていない。
そんな部屋に住んでいたら気も滅入るだろうが、彼女にとってはさらに問題なのが。
この問題発覚から今日までの6年の間、水が滴って来たのが、彼女の部屋にだけだったのもあった。
それ故に、この漏水問題が急ぎの解決を図られなかったのだろうか、とX1は唇を噛む。
「初めまして。私共はM不動産カスタマーサービス部のX1と」「M4と申します」
一応息を合わせてくれたM4と名刺を彼女に差し出すが、彼女は名刺の内容に目を通すことなく、部屋の案内に移ってしまった。
慣れた様子で染みのある場所と、水が垂れてきてしまっている場所を列挙される。
何度も繰り返した行為なのだろう。
染みは以前より悪化しているようだが、場所は引き継がれた資料から増えてはいない。しかし。
「ここ、ですか?」「はい」
X1は染みをじっくりと確認する。そして返答を聞いた瞬間、思わず、ため息が出た。
遠目からは一見染みているのみに見えていたが、注視すると、滲み出した雨水が水滴になっている。
「これは酷い」
「でしょ? この後雨が止んだとしても、3時間は雨水が天井から垂れ続けるんです」
彼女は疲れた表情にどこか勝ち誇ったような笑みを含ませて言った。
それはまるで、『ざまあみろ』と言っているようでもあった。
X1はそんな態度を取る彼女に、何かを言い返すことが出来なかった。
自分達の失敗が招いた事態なのだという自覚があるからだ。M4はそんな二人を見て、鼻を鳴らしてその場を去る。
「あなた方は、何とか出来るんですよね?」
彼女はX1に詰め寄る。X1はたじろいだ。
「最初のM2さんでしたっけ? よく覚えてますよ。あの人、何もしてくれなかったですからね」
彼女は、怒りを隠さずに言う。彼女が漏らした言葉に、X1はただ押し黙ってしまう。
そう、ここに来る途中でM3から聞いた話では、M2という最初の担当者はこの問題に従事していた期間で何も目立った成果を上げられなかったらしい。
それに対する文句を、尻拭いを押し付けられた当時のM3は、散々この所有者の女性に浴びせられて、嫌気が差していたと言う。
『だから、そういう意味では君に同情してやるぞ、X1君。俺に尻拭い未満の汚名を着せた事実は抜きにしてな』
彼は一言多い。というか、M3の発言は通常の半分で十分だ――とX1は目頭を押さえる。しかし、色々困難はあったらしいが現状はこれだ。
彼女は自分の部屋を見上げていた。壁紙が継ぎ接ぎになっているのが分かる。
そこは恐らく、水滴が一番多く落ちてきている場所。カビになる度に、所有者は壁紙を張り替えているのだ。
そんな部屋を、彼女は眺めながら呟いた。
「私は、もう諦めてるんです……きっと、この先もずっと、ここを離れられないんじゃないかって」
通り雨だったのだろう。雲間から日が差し、その光が窓を通して彼女の重苦しいシルエットを浮き立たせる。
X1には、彼女の言いたいことが分かる。こんな部屋には住み続けたくないが、こんな部屋では、買い手が付かないのだ。
「私達はこれからも、最善を尽くします」X1はせめて、信頼されるだけの仕事をすると約束する。
「そうですか、なら、出来る限り、早く尽くして頂きたいと思います。私にもう、要らぬ希望を、持たせないでください」
所有者はそれだけ言うと、X1に案内の終わりを告げた。
玄関へと先導する彼女の背中を見て。X1は自身の表情の変化を、ぐっと抑えるのだった。
会社のオフィスに帰ってきても、X1はどこか浮かない顔をしていた。
「X1さん。僕がちゃんと、引継ぎ業務を遂行したことを、しっかり部長に報告してくださいね……」
自分のデスクに戻っていくM4が、振り向きざまにこれまた陰険な口調でX1に念を押す。
確かにM4はしっかりと自身に出来る仕事をしてくれた。
内容はM3が説明を面倒臭がった部分の補足だったりするにせよ、仕事をしてくれたことに間違いはないのだが、X1はその事に素直に感謝できなかった。
何故なら、M3とM4はX1に知識を授けると同時に、不安も植え付けていったからだ。
X1は気を取り直し、自身の所属するカスタマーサービス部の部長であるM1の姿を探す。
デスクには居ないが、ボードに外出の文字は無い。
自分とM4の現在情報を書き換えつつ周りを見渡すと、そのX1の視線の先に、窓際で暇そうにしているM2の姿が有った。
「ああ、X1。お疲れ様。引き継ぎは完了? 私たちの6年は、君の役に、立そうかい??」
彼に部長の居場所を聞こうと思ったX1は、意図せず彼の雑談に巻き込まれていた。
「はい。有り難い限りです」
自慢げなM2の身振りは、彼に対するX1の表層イメージとはギャップがある。
彼は身嗜みに頓着しないのか、まるで接客業に従事しているとは思えないヘアスタイルをしている。
髭も伸びていて、ここまで伸びると無精髭ではなく、これはこういうファッションなのではないかとすらX1には思えた。
「ならよかったよ。私と、M3君の蓄積情報が生かされることを切に願うよ。大丈夫、君なら出来る」
何の根拠もなさそうな発言と共にM2はX1の背中を軽く叩いて、先輩らしい喝を入れる仕草をした。
「はい、ありがとうございます……」
「ああ、後さっきの資料の抜けがあってね、これなんだけど、」
X1はヒラヒラと追加書類を振るM2のフレンドリーさに、少々面喰いながらも部長がオフィスに戻ってくるまでの時間を有意義? に過ごせたのだった。
「報告は受けた。君はどうするんだ、X1」
M3、M4両名からの引継ぎの完了と、初回現地確認の報告を部長であるM1にしたX1は、早速意見を求められた。
「私は……この案件は皆さんが言うよりずっと単純な問題だと思っています。M2さんやM3さんも苦慮をしていたと考えますが、それでも、最も単純な手段を考慮しなかったわけではないでしょう。部長?」
「そうだな。だが、それを考える前に取るべき手段が残るだろう。それをせずに最善とは? 説明が出来ないんだよ、X1」
M1は、X1が引き継いだ資料の、漏水箇所特定作業の報告項目を開き、指さした。
結果原因不明の文字が並ぶその工程を、今度はX1の手でやるべきだと、M1は言いたいらしい。
「わかりました……責任を持って、私はM2さんのやり方を否定します」
自身の伝えたいことが何とか伝わったと知り、M1は満足そうに笑った。
「任せるぞ」
部長の承認を受け、X1は自分のデスクに戻り、自分のパソコンを立ち上げる。
M4とM3、それぞれの不躾な視線を感じながら、X1はため息交じりにキーボードを叩く。
「えっと、まずは……M2さんの資料で分からない所を、M3さんの意見を聞いて……」
X1は独り言を言いつつ、M2から貰った追加資料のページをめくる。
そして、M3の手順を確認する為に、彼の作った資料を開く。
「なにこれ……?」X1はそれらを見比べ、思わず声を出してしまった。
追加資料には、最初にX1が受け取ったものよりも更に詳細な調査記録が載っている。
M3の持っていた資料と比較すると、その情報量の差は一目瞭然だ。
「M2さん、M3さんに恨みでもあるのか?」
X1は社内人間関係の陰湿さに、今更ながらに辟易してしまうのだった。
雨は遠く過ぎ去り、澄んだ天空には星が輝いている。
「本当にギスギスしてるよな、正社員って人達も……」
自宅のリビングで紫色の飲料が入ったグラスを傾けるのは、風呂上がりのX1。
彼は更けていく夜空を窓越しに見上げながら、不思議な安堵感に包まれていた。
「職場の愚痴ですか? X1さんは健全な思考を持ってますものね」
そう口にするのはY1だ。彼女はバスローブ姿でリビングに戻り、X1の対面に座った。
X1も同じ格好だが、およそそれは問題でしかなかった。
「なんで、ウチでお風呂入ってるんですか? 何か頻度上がってますよね」
X1が敢えて不機嫌そうに言ってみるが、Y1は微笑んでいる。
「ですが、お仕事、任されているのでしょ? 実は信頼されているとか」
「信頼、されているのでしょうか……。ただの厄介の押し付けに感じますね。今回の仕事は……」
X1は目を伏せながら、グラスの中の紫色の液体をなめるように飲み干した。
美味しい。流石は高級葡萄ジュース。X1は舌の上でその芳醇な味わいを楽しんだ。
「Y1さんは、職場で信頼されているかって、どうやって測りますか?」
X1は、同じジュースを我が物顔で飲み始めたY1に質問してみた。
「ふぅ……。信頼されているかどうかは、仕事を頼まれる頻度とか、重要な案件を任されるかどうかとかで分かります。そして、」
Y1がX1の目を見つめる。X1はその瞬間恐ろしい程の緊張をその身に感じた。
「あなたがいつもしていることですよ? X1さん……」
「俺が……何をしているって言うんですか……」
X1は驚きと戸惑いを隠せなかった。Y1の言葉に、彼の心には未知の焦燥が広がっていく。
「X1さんの仕事は、ただの厄介ごとではないはずです。それは誰でもは、為し得ない特別な役割なのですよ」とY1は静かに語った。
「そう……なんですかね」X1は自信が持てない。
そこに、Y1がワインの香りでも立てるようにグラスを回しながら続けた。
「あなたのアフターマン業務は、ただの修繕や点検ではないです。あなたは、人々の心の傷を癒す存在なのです」
「……」
X1は言葉を失った。彼が果たしている役割が、そんな深い意味を持っているとは思いもよらなかった。
それもそうだ。彼の、職場での契約社員という中途半端な立場は曖昧で、単なるつなぎの仕事だと、そう社員から思われるのは避けられない。
そんな環境で、一日一日を耐えることが、自分の仕事だとすら彼は思っていた。
だからか、その普遍でしかない言葉が、X1には異様に新鮮に聞こえる。
「今は、そのお言葉に感謝しておきますね。Y1さん。ですが、」
「はい、何か?」Y1は、如何にも疑問に感じています。という風な顔で、聞き返す。
「ですが、何で今日もウチでお風呂に入っているのかの質問に答えて貰えていないのですが」
X1は口元で笑い損ねながら、静かにY1に問いかける。
Y1はそんなことか、と興味なさげに目を逸らし、一言で片づける。
「今日はそんな気分だったからです」
「そうですか、Y1さんは気分屋だな。でもですね? 気分屋では済まないこともあります」
何ですか? とY1は今度はニコニコしながら、聞き返す。もう、X1が言いたいことが分かっているとでも言いたげだ。
「……陰湿な感じなのは、貴女もでしたか、Y1さん」
X1は最大限の嫌味を込めるが、Y1のニコニコは醒めない。もう仕方がないと、X1は決心を固める。
「なんで、Y1さんは、俺の、バスローブを、着ているんですか! お答えください!」
アンサー。Y1は機嫌よく、回答に応じる。
「それはですね? 今日は、そういう気分だったからですよ? これで、いいですか??」
「……――――よ」「よ? 用益権? 認めてくれますか?」「……よッ、」
よくなーい!!
X1は心の中で大声を出した。もう夜の十一時だ。口に出したら近所迷惑だろう。
でも、例え自分がどんなに大きな声を出し、近所迷惑になろうとも。
Y1さんの、約一名に対する近所迷惑よりは、余程マシだろうとX1は眠くなった頭で考えていた。
「……あれ、そういえばこんな格好のY1さんは、このあとこのままの服装で下の自分の部屋に帰るのかな……」
その後、寝床に入ったX1は喧騒の無い静かな夜をぐっすりと堪能した。
朝起きると、普通にX1の隣で寝ていたY1の姿に体中の緊張が爆発してしまったのは、また、違う話。
数日後、依頼者である最上階の部屋の居住者の許しが出た日。
X1は再び分譲マンションの屋上で、M3の施した漏水経路特定方法の反復実験を決行していた。
各クラックに、10分毎の間隔で着色水を流し込む。
雨が降ってから水滴が垂れてくるまでの時間は分かっているので、どのタイミングで水滴が現れたかを観測できれば、漏水の原因となったクラックが特定出来るといった寸法だ。
しかし、M3が実験に使用したクラックは彼の手で全てシールされているので、X1は彼が面倒くさがって確認しなかったクラックに対し行わなければいけない。
と、なれば。M2さんが渡してきた追加資料に書いてある箇所で実験する。だが、それは簡単に手の届く場所ではない。
つまり、こうなる。
「う……と、届け……」
X1は長い棒の先にガムテープで括り付けたペットボトルの着色水を、屋上の柵の隙間から通し、クラックに何とか流し込むという、曲芸のような作業をしていた。
後ろには、何故か隠れながらX1に付いてきていて、遂に見つかってしまったM4が、X1の体と棒を支えてくれていた。
「なんで……俺が……なんで、こんなことを……!!」
「もうちょっと前に……! よし! もうちょっと、左!」
「うわあああ! くそおおおおお!!」
普段のM4よりさらに怒りの数値の増した、新しいM4の姿がそこにあった。
X1はM4に棒を掴まれながらも必死に、棒の先にあるペットボトルを傾けようとする。
しかし、ペットボトルの尻が外壁にぶつかり、なかなか上手くいかない。
「高さを稼げてない! しっかり踏ん張って!!!」
「分かってますって!!」
そんなやり取りをしながら、やっとペットボトルの色水が漏水箇所候補に注ぎ込まれた。
――じょばあ。
「よしッ!! 次、右下!!」
ぶしゃあ。
「もうちょい上!!」「はい!!」「そう!! そこ!!」「もっと!!」「ここですか!!」
バシャァアアッ!!!! 色水は勢いよく流れていく。
「はあ……はあ……」
「やったぞ!! 成功だ!!」
「やりました!!!」
二人の声が屋上に響き渡る。
そして、二人は手を取り合って喜ぶ。
―――そこに、突如として現れた人物がいた。
「おお、やったねお二人さん。これなら手伝いは必要なかったね」
それは、M2だった。彼は何食わぬ顔で、貯水槽の上に乗り、こちらに手を振っていた。
「――あ、M2さ……ん……?」
「――M……2……!? どうしてここに……!!」
二人が驚くのは当然であっただろう。何故ならば、M2は今日、この場に来る予定ではなかったからだ。まあ、M4だってそうなのだが。
X1は、この案件の部内注目度の高さに驚愕する。
「ここまで、この問題が長引いたのは、元はと言えば私のせいだからね。無能の身ながら、最後にお手伝いくらい、したくなったのさ」
「最後……どういうことですか?!」M4がさらに顔を強張らせる。その表情に浮かぶ感情を、X1は推し量るしかない。
「私はね、もう、最後のチャンスを使い切ったのさ。もう、移動先の部署も無い。会社都合で退職出来るだけ、幸運なんだ」
彼は、梯子を伝い地面に降りながら、周囲に広がる、自分が作ってしまった負債の象徴を見渡す。
「その道具の後片付けは、私がしておく。X1君は、部屋を見に行くんだろ? それと、M4君」
「はい……」
「……君に、社内コミュニケーションスキルを教えると言ったのに。それどころではなくしてしまって済まない。悪い見本を見せた」
「……」
そんな二人を背に、X1はその場を立ち去り階段を下りていく。その後、二人と合流することは無く、一日が終わった。
結果から言えば、室内の漏水は起こらなかった。この反復実験は徒労ということになるのだろうか?
否、そうではない。X1の仕事は、この検証結果を無駄にしない。そのための自分という人選なのだから。
『君なら出来るよ』
先日、M2にそれとなく言われた言葉だ。当時は、単純な励ましにしか聞こえなかったX1だったが。
今は、違う。こうなってから考えれば、M2は自分に、心残りの解消の全てを委ねてくれたようにも思えた。
M2は何故、この漏水問題から外されたのだろうか。
ひょっとしたら、こと情報収集能力において、彼は他の社員よりも勝っているのではないのだろうか。
しかし、時間の掛かり過ぎで対処の実行まで間に合わなかった。
そういうことなのか。
X1は決心する。彼の、M2の情報を元に、この問題を解決すると。それがきっと、M2の心の癒しになると、信じて。
「もう、全面防水塗装しかありません。全ての確認可能なクラックは、1216号室の漏水要因ではありません」
X1は部長のM1に報告する。「やっぱりそれかい……もうその案は検討したよ」
M1はうんざりした表情を浮かべる。
周囲には、他社員達が集まってきている。この問題に関わったり、間接的ながら推移を見守ってきたと思われる面々ばかりだ。
M2、M3、M4の姿もある。
「全面防水なんて不可能だよ……費用だって馬鹿にならない。しかも、困っているのは、一人だけだ」
M1が呟くと、周囲からうんうん、そうだ、と何処からともなく同意の声がする。
契約社員という立場の自分の提案は、やはり、駄目か? X1は社員たちの圧力に屈しかける。
「確かにそうですが、漏水で老朽化の進行がこれ以上加速したら、困るのは我々と、多くのお客様ですよ」
そう言ったのは、M2だった。彼は賛成してくれたようだ。そして、M2はX1に耳打ちする。
『X1、私は君の味方だ。だから安心してくれ』彼はX1の肩に手を置き、笑顔を見せた。
しかし、M4は違った。彼は少し驚いたような顔をした後、口元を歪ませ、こう言いだした。
「この件、こんな結論しか出せないX1には任せられません。本当にこの問題を解決できるのは、M2さん、貴方だ。皆さん、M2さんにもう少し時間をください。そうすれば、絶対に、原因箇所が分かります」
一同は沈黙に包まれた。それは、M2に対する期待というよりも、不安に近い感情であったように思えた。
M2は、いつものように微笑みながら、「まあまあ、落ち着いて下さい。M4君、無茶を言っちゃいけない」と穏やかな口調だ。
「M4、それが仮に事実だとしても、もう、M2を現場には戻せない。依頼者との信頼関係の改善が、望めないんだ」
部長であるM1の冷徹な論理が、追い打ちのようにM4の頭を打つ。M4は俯き、今はその場を立ち去る他無かった。
「X1、M2。本当に、全面防水塗装しか、ないんだね?」M1がはっきりと、通りの良い声で確認する。
「ええ」先に言葉を発したのはM2だった。
「X1君が追加で集めてくれたこのデータが、その証左です。私達が6年掛けて集めた情報を、一週間で、明らかな確信に変えてくれた。“原因不明”。これが結論です」
M2さん?! 横で自分を褒め称えるM2を、X1は信じられないといった顔で見る。
どうして、彼は自分の功績をX1に無条件に与えるのか、X1には分からない。これが彼の、贖罪なのか?
「遅かれ早かれ、全面塗装なら、出来るだけ早い方がいい……誰か、異論はあるか?」
それは、断腸感溢れる、部長の言葉だった。もう殆ど、反対意見は出なかった。
「M3。君の意見は?」
「部長のお考えは正しいと思います」
その言葉と共に、即席で始まった会議は、これで終わった。X1は隣に残ったM2に、深々と頭を下げる。
「M2さん、ありがとうございます……」
「礼を言うのはまだ早いさ。それより、M4君の件、大丈夫かい?」
「はい、彼、凄く落ち込んでいました。私は、彼の気持ち……分かります」「分かる?」
「この際だから、言いますが。M2さん。貴方はご自分の能力に自覚的すぎる。全部貴方の手の平の上じゃないですか……。不評だって、きっと、貴方は自分で解決できた」
「買いかぶり過ぎだよ、X1君。今回は確かに、この結果に導いたが、元来向いてないんだ。私は――」
“ただ、信頼され続ける。という事にね”
「……それ、どういうことですか?」「さあね? じゃあ、これからも頑張って」
「え、ええ……」
困惑するX1を残し、M2は立ち去っていく。それから、一週間と立たずに、M2は完全に退職した。
しかも、工事の施工開始を待たずに。
M4はそれから表情に隈を深く刻み、陰険な印象を濃くした。だが、打って変わって人当たりのいい顔をすることも増えた。
それはまるで、M2の印象をコピーするかのように。
「ありがとうございました。全面防水塗装工事の連絡を頂いた時は、夢かと思いましたよ」
本日は晴天。問題の最上階の部屋も、今日ばかりは、カラっと気持ちのいい風が通る。
塗装会社の工員と打ち合わせの後、帰り際にX1は12階でこの部屋の家主である彼女に捕まったのだ。
生気を取り戻しつつある彼女は、ふと、思い出したように言う。
「そういえばさっき、下でM2さんを見ましたね。一緒に来られたのですか? 彼には酷い事を言った覚えがあります。是非、謝りたくて……」
「い……いえ、M2は、もうM不動産に居りません。お心遣いありがとうございます」
不意に告げられた彼女の誠意に、X1は思わず事実を言ってしまう。何か不要な事を口走っていないか、X1は気にする。
それ以上に。彼がここに来ている? X1は、そそくさと家主に別れを告げると、足早にその場を去った。
「M2さんは、どうしてここに? 見に来るなら、まだ早いって……」
エレベーターで、1階に降りたX1が目にしたのは、さっきまで自分が一緒にいた塗装会社の工員と、同じ車両で去っていくM2の姿だった。
「……M2さん、あなたって人は」
――もう、取り返しは付かない。
X1は、このアフターマン業務からの、転職を考え始めるのだった。幸いにして、自分の収入源は、この仕事からだけではないのだから。